科学革命と中国

ネット中継された先日のアントニオ・ネグリ来日講演会で、パネラーの一人として発言した上野千鶴子氏は、チェルノブイリの事故当時「ソ連ならありうる」みたいなことを考えたと述べ、それを「テクノ・オリエンタリズム」だと喝破してみせた。なるほど、そういう視線は今私たちも、多かれ少なかれ内面的に取り込んでしまっていて、某近隣の国をはじめ、アジアのほかの各国を見る際のバイアスにもなっている。そのあたりのことはきちんと見据えないといけないと思うのだけれど、そうした中、テクノ・オリエンタリズムに関するちょっと個人的にも興味深い論考を眺めてみた。ネイサン・シヴィン「なぜ中国では科学革命は起こらなかったのか−−本当に起こらなかった?」(Nathan Sivin, Why the Scientific Revolution Did Not Take Place in China – or Didn’t It?, East Asian Science, Technology, and Medicine, 1982)(2005年の改訂版のPDFがこちらに)という論考がそれ。

これは「なぜ近代科学は西欧でしか興らなかったのか」というよくある設問を、著者曰く「裏返す」ことで、「ヨーロッパ科学の伝統についてのどのような想定が、この設問を必要以上に過大に重視するよう仕向けているのか」を考えるという、なかなかに刺激的な一本だ。著者は様々な、そして時に無根拠な「想定」がそこに潜んでいると考えている。たとえば、科学革命というものは本来的に誰もが手にしてしかるべきもの、誰もが手にしたいと願うものだったという想定が挙げられる。近代科学がその後に世界を席巻したことからもそれは証されるというわけなのだが、著者はこれに対して、他の社会が変化の中での生き残るために近代科学が重要となったからこそ、それぞれの社会がそのような科学を切望するようになったのであって、その逆ではないと述べる。逆にその想定のせいで、西欧がなぜ近代科学を必要としたのかという問題が隠れてしまうことにもなる、と。西欧は基本的に、自然の技術的搾取、技術的防衛が未熟な社会の政治的搾取において一種のヘッドスタート(他よりも有利なスタート)を切ったがゆえに、特権的な立場をだけなのにもかかわらず、その立場を支える近代技術の急速な普及をもって、それを普遍的なものと見なそうとする。そうした普遍観を著者は「希望的観測」、主観的な見方にすぎないと一蹴する。著者によると、それらの想定は推論上の誤謬によって下支えされている。主な誤謬として、所与の環境が整ってこそ科学革命の条件が整うというものや、他の社会には文化的な疎外要因があるというものを挙げ、その上で、それらを西欧の科学革命前史すら顧みない推論的誤りだと断罪している。つまり、西欧の科学史、技術史を振り返ってみるだけでも、歴史的事実にはそれらへの反証がことごとく見いだせるというわけだ。確かに、前者は原因・必然的条件と単なる前状態の記述との取り違えだし、後者はそれに続く状態の記述を疎外要因と混同している。これらの誤謬が相まって、西欧のブレークスルーが歴史の必然のように祭り上げられるようになった……。

もちろん中国にも豊かな科学技術の伝統があった……というわけで、著者が論文の序章にあたる部分で挙げているのは、北宋時代の沈括(Shen Kua:しん・かつ:11世紀)という博学で識られる人物。天文学、暦学から医学にいたる諸学に通じていたとされる。たとえばその卜占観などはきわめて合理的なものだったという。西欧的な一般通念(上の誤謬に染まった)では、中国では学問としての哲学がなく「中国の科学は体系化がなされなかった」と括られてしまいがちだというが、著者は当然体系化はあったろうといい、ただそれは学者の間でのみ伝えられていたのだろうとしている。なるほど。それにしてもこの沈括も面白そうだ。主著の『夢渓筆談』は東洋文庫で出ているそうなので、そのうちぜひ見てみよう。

wikipediaから、逸名画家による沈括の肖像(18世紀)
wikipediaから、逸名画家による沈括の肖像(18世紀)