メルセンヌが見たブルーノ

ジョルダーノ・ブルーノがらみで、今度はメルセンヌによるその批判を扱った論考を見てみた。アントネッラ・デル・プレーテ「反論と翻訳:マラン・メルセンヌとジョルダーノ・ブルーノのコスモロジー」(Antonella Del Prete, Réfuter et traduire: Marin Mersenne et la cosmologie de Giordano Bruno, Révolution scientifique et libertinage, A. Mothu (éd), Turnhout, Brepols, 2000)(PDFはこちら)。メルセンヌは17世紀前半に活躍した神学者・数学者だけれど、誕生しつつあった近代科学が非宗教的な方向に向かうことを阻止したいと考えていて、1620年代に理神論や自由思想(リベルタン)への批判の書をいろいろ刊行しているようだ。で、それらの中にジョルダーノ・ブルーノの無限論と世界霊魂論を取り上げたものがあるのだという。しかもメルセンヌは、ある著作ではブルーノの著作の一部を翻訳して紹介しているという。そんなわけで同論文は、その翻訳・抜粋の仕方なども含めて、メルセンヌがブルーノをどう扱っているのかを詳細に検討していく。1623年刊行の『創世記の諸問題』においてメルセンヌは、世界の統一性が導かれさえすればとの条件つきで、世界が複数あるという議論を寛大に受け止めているという。世界の統一性こそが神の賢慮の現れを担保するからだ。ところがその翌年の著書では、ブルーノの著作に細かな反論を加えてみせる(1624年の『理神論者たちの不敬虔』)。これに『無限について』『原因について』などのブルーノの著書の抜粋と翻訳が収録されているというわけだ。その翻訳は基本的には原典に忠実だというが、翻訳語の選択はときにスコラ的な古色を帯び、ブルーノをキリスト教的に読み替えようとする意向が見られるという。また、パッセージの切り取り方やまとめ方などにおいて、ときおりブルーノの思想内容が歪曲されているケースがあるという。

無限についての議論では、メルセンヌはあくまで異端とされた哲学思想を問題にし、地動説がらみの部分は覆い隠しているという。アリストテレス的教義を引き合いに出すことはあっても、あくまで護教論の立場からの反論で、要となっているのは世界の構造には必然性などなく、神の自由意志のもとで創られ、被造物は創造主に依存しているという議論。これはブルーノに限らず、自由思想家一般への批判になっているという(ブルーノもそれらの先鋒扱いされている)。また世界霊魂論についても、メルセンヌはその想定がそもそも不要だという立場を貫く。たとえば世界の多様性の議論は、神の自由意志による説明で十分だとする。ブルーノが多様性の説明として唱える、継起論(無限の世界であっても、形相は有限であり、質料は時間の経過にそって次々に諸形相を纏うという議論)は斥けられる。ブルーノは世界霊魂(それが人間に共通する)を唱えつつも人間の自由は認めており、また自由思想家一般にしても、賢者に対して一般民衆はその無知ゆえに宗教による導きを必要とするとしており、世界霊魂で人間みな同じとされてしまうと、師匠や権威を敬うという理由が無くなってしまうというメルセンヌの危惧はそもそも的を射ていないともいう。世界霊魂の考え方ではモラルが確立できないというのがメルセンヌの前提だが、ここでブルーノは、その独創的思想にもかかわらずほかの自由思想家たちと一緒くたにされてしまっている。なるほど、メルセンヌがほかの真の敵と渡り合うために、ブルーノはダシにされた感じか(と言っては言い過ぎかしら?)。

フィリップ・ド・シャンペーニュによるメルセンヌの肖像画
フィリップ・ド・シャンパーニュによるメルセンヌの肖像画