シミュレーションと心身問題

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)以前取り上げた西垣通『集合知とは何か』(中公新書)で紹介されていた、西川アサキ『魂と体、脳−−計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社選書メチエ、2011)をとりあえず通読してみた。どこまで理解できているかもおぼつかないけれど、これは何とも刺激的な「モナドロジー」論だ(ロジーと論とで、冗長的で変な言い方になってしまうが)。ドゥルーズが『襞−−ライプニッツとバロック』で注解してみせたモナドロジーをもとに、支配的モナドの成立をコンピュータシミュレーションに乗せて検証しようという野心的な文理融合的探求。ライプニッツのモナドロジーは用語的にわかりにくく、ドゥルーズの注釈もまたわかったようなわからないような、もやもやとした気分が残るものだけれど、ここに第三のレイヤーが新たに積み重なって、ある部分は見通しがよくなり、また別の部分では煙に巻かれたような気分で、未消化感も残りつつ、全体としては新たなブレークスルーを予感させるという、とても複合的な読書体験が楽しめる(笑)。まず同書は、ドゥルーズを経由したライプニッツの議論をモデル化するために、より現代風な、あるいはコンピュータサイエンス系の専門用語に一見大胆な翻案を試みる。たとえば乱立するモナドの群れは、ここでは比較的シンプルなやり取りをするエージェント(限定された数の要求と、相手が要求に適うかどうかを判断する機能、相手の信用度を判断する機能などをもつ)に比される。で、それらの相互のやり取りの中から、「中枢」的なエージェントが創発されるプロセスを見ていくというわけだ。中枢がどう成立するのか、またどう維持されていくのか(ライプニッツの言う「実体的靱帯」の解釈に重ねられる)、他のモナドからどう認知されるのか、またどういう場面で崩壊にいたるのか……etc。シミュレーションはそうした諸問題を取り込む形でどんどん複雑化していかなくてはならないようだ。で、それら諸問題をモデル化するために、ドゥルーズの解釈やその他の哲学的な言説がこれまたかなり大胆に援用されていく(ヴィトゲンシュタインとかベルグソンとか、ニーチェまで)。いわばこれは、中枢の創発問題を通じ、哲学的言辞をシミュレーションに「言寄せ」て検証するという、なんとも新しい発想の思想書だ。いや〜確かにとても面白い。面白いけれど、ちょっと戸惑う。なにしろ、従来の哲学研究が関わってきたような文献と現実世界との突き合わせに代わって、ここでは文献とシミュレーション(しかも実装系ではなく抽象的なもの)との突き合わせが行われているのだから。シミュレーションが操作的に(いくらでも?)可変であることを考えると、ふとその突き合わせ自体がややもすれば恣意的なものに陥る可能性はないのかしら、という素朴な疑問も頭の片隅をよぎったりもする。モデルへの哲学的言辞の翻案自体が妥当かどうか、どう検証すればよいのかしら、なんて考えながら同書を繰っていると、なにやら高揚しつつも霧の中を彷徨うような気分にもなる。