偽プルタルコスの音楽史

Moralia, Volume XIV: That Epicurus Actually Makes a Pleasant Life Impossible. Reply to Colotes in Defence of the Other Philosophers. Is 偽プルタルコスの『音楽について』を、Loeb版(Moralia, Volume XIV: That Epicurus Actually Makes a Pleasant Life Impossible. Reply to Colotes in Defence of the Other Philosophers. Is “Live Unknown” a Wise Precept? On Music (Loeb Classical Library))で一通り読んでみた。これもなかなか面白い。音楽に詳しい二人の人物が、招かれた食事の席で音楽史というかその来歴について蕩々と語るというもの。最初に話をするリュシアスは、音楽がキタラに合わせて唄うことから始まったとし、ゼウスとアンティオペの子、アンピオンを開祖としている。神話世界からの連続的な歴史記述が面白いが、その中でも笛などの音楽よりもキタラのほうが古いと述べているのが印象的だ。笛も最初は伴奏用で、それから単独で演奏されるようになったとされている。さらに、ドーリア、フリギア、リディアの各旋法も古くからあったとされ、時代が下るにつれていくつかのノモスが確立されていくと説明される。ギリシア音階のエンハーモニーの考案者はアリストクセノス(前四世紀:最初の音楽理論家ともされる)だといい、リズム形式についてはテルパンドロス(前七世紀:四弦キタラを七弦にした人物でもある)が革新的だ、などと述べている。で、それに続いて今度は、ソーテリコスが語り始める。そちらは古代の人々と近代(というか同時代の)人々との対比を取り上げ、ミクソリディア旋法などの台頭について述べてみせる。詩人たちが悲劇を伴奏するようになっても、なかなかあえて半音階を用いることはなかったが、それは「近年」になって用いられるようになってきた、という(キタラの音楽ははじめから半音階が用いられていたとされたりする)。一方でリズムに関しては古代のほうが複雑だったという。そこから今度は和声法的な話になり、数比の話などが出てくる。戦と音楽、テルパンドロス(再び!)の革新性、ヒポリディア旋法の考案(ポリュムネストスとされる)、熱狂的叙情詩(ヘルモネのラソス)、音楽教育の基本、理論の発展、音楽療法など、様々な細かい話題が続いていく。

『音楽について』はプルタルコス『モラリア』の末尾を飾るテキストだが、これはプルタルコスのものではないという説が有力とされていて、おそらくは13世紀のビザンツの学者マクシモス・プラヌーデースが『モラリア』の文書群に入れたものでは、と言われている。アンジェロ・メリアーニ「カルロ・バルグリオのラテン語訳プルタルコス『音楽について』へのノート」(Angelo Meriani, Appunti sul De musica di Plutarco tradotto in latino da Carlo Valgulio, in Ecos de Plutarco en Europa. De fortuna Plutarchi studia selecta, ed. Aguilar & Alfageme, Sociedad Española de Plutarquistas, 2006)(PDFはこちら←注意:このPDFは2ページ目以降が上下逆になっているので要編集)という論考によれば、一六世紀に再発見された際、すでにエラスムスや仏語訳を手がけたジャック・アミヨなどが、文体的な違いをもとに、プルタルコスを著者とする説に疑念を表明しているという(音楽理論家でリュート奏者でもあったヴィンチェンツォ・ガリレイも同調しているのだとか)。同論考では、このテキストには同時代への言及などが盛んにあって、しかも明確にアナクロニックな部分もあることから、後の時代に舞台となった時代を思い描いて記された文章なのだろうとしている。同論考はさらにその一六世紀の受容について、上のガリレイや彼がもとにしたバルグリオのラテン語訳について追っている。