古典詩への手引きの書

人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)今回の田舎行きでは、行きと帰りの新幹線ではこれを読んでいた。沓掛良彦『人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)』(ミネルヴァ書房、2015)。漢籍や西欧の古典詩まつわるエッセイ集なのだけれど、個人的には前者にはあまり縁がなく、後者についてもギリシア詩に真っ向から取り組めるほどには古典ギリシア語を読みこなせてはおらず、一部の哲学書を囓る程度でしかないけれども、いつかはアプローチしたいものと願っている。そんなわけで同書のとくに第二部は、碩学による古典詩案内の第一歩として興味深く読める。ギリシアが決して海洋民族などではなかった(第八章)、あるいはギリシアには秋を除く三つの季節感しかなかった(第一五章)といったちょっと意表をつく話(言われてみればその通りかと納得するのだけれど)、あるいはまたポール・ヴァレリーをもってしても古典の翻訳は難しいものであるといった指摘(第一四話)や、ユイスマンスの『さかしま』が呪縛となってキケロを味わい尽くしていないといった話(第一六章)などなど、はるかに卑近な例に移しかえるならば個人的にも大いに身につまされる話題も多い(苦笑)。詩と哲学の不和なんて話題もあり(第七章)、クセノパネス、パルメニデス、エンペドクレスなど、詩と哲学がまだ分離していないとされる著者たち、あるいは詩的な韻文による哲学の完成形としてのルクレティウスなど、両者が融合している事例が挙げられている。上の話にかこつけるなら、哲学書にもそれぞれ言葉のリズムのようなものは当然あるので、今のところはそれを味わおうとするのがせいぜいな輩としても、このあたり、目下じわじわと静かな刺激を受けているところ。