通詞の現象学 – 0

蘭学と日本語思うところあって、杉山つとむ『蘭学と日本語』(八坂書房、2013)を読み始める。これは基本的に蘭学についての著者の論文集。まだ一本目の「中野柳圃『西音発微』の考察」を見ているだけなのだけれど、噂にたがわず、すでにしてとても興味深い。中野柳圃は江戸時代の通詞・蘭学者(1760 – 1806)。その柳圃に『西音発微』という書があり、日本語の五〇音についての考察が展開されているのだという。蘭学による西欧の音声学の影響を受けてということなのだろう、そこではいち早く近代的な音韻論の萌芽のような記述があり、当時優勢だった国学の見解と見事に対立するものとなっているらしい。たとえば語末の「ん」の音(撥音)。柳圃はこれを「ん」であると認めているが、伝統に立つ大御所の本居宣長などは、これをすべて「む」であると一蹴しているのだという。柳圃と宣長のアプローチの差を、著者は「科学的考察」と「観念論」との対立であると読み解いている。さらには喉音(ア行の音)と唇音(ワ行、ハ行などの音)との差についても、柳圃の側が優れた指摘を行っているという。

柳圃における現象へのアプローチは、蘭学の影響と言ってしまえば簡単だが、それはもっと丁寧に深めていく価値がありそうに思える。通詞的な作業が内的に開いてくパースペクティブとか。そのような観点から、同書はいっそうの精読に値するような気がする。そんなわけでこれを「通詞の現象学」という側面から読むことができないかと考えてみたい。通詞という役割の内実や、そこから開かれたであろう、そして当人の学術的営為を深いところで駆動したかもしれないそのパースペクティブの実情、そしてその言語観の成立などなど、様々な方向性が考えられる。とはいうものの、蘭学がらみの話はまったくの門外漢なので、多少とも時間がかかりそうではあるけれど、追って順にまとめていくことにしたい。