「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

翻訳論集成

ドイツ系の近代の翻訳論を集めた『思想としての翻訳』(三ツ木道夫編訳、白水社)。ロマン派あたりの翻訳論だけあって、中身もかなり文学論寄りで、ときにある種の思いこみのような議論に貫かれていたりもするのだけれど(笑)、とにかく翻訳の対象が主にギリシア・ラテンといった古典語で(さすがロマン派)、ドイツのそのあたりの豊かな伝統に思いを馳せることができる。とりわけヘルダーリンの訳業が高く評価されているところが印象的。ノイベルト・フォン・ヘリングラードなどは、他の凡百の翻訳が原典からいろいろに隔たってしまうのに対して、ヘルダーリンのピンダロスの訳は、逐語訳との批判を受けるほどに通常のドイツ語からすれば破格であろうとも、「一つの原理から生まれた統一体」であり、「原作の芸術としての性格を再現しよう」としたものだ、と絶賛している。ベンヤミンもまた、ヘルダーリンの翻訳を「翻訳の原像」だと断定する。ベンヤミンは翻訳の考え方として、意味すら超えた、意味の彼方にある作品としての本質そのもの(純粋言語と称される)を目指すべきだといい、一種の超越論、あるいはイデア論的な理想を掲げている……。個人的にはヘルダーリン訳そのものを見たことがまだないのだけれど、「ギリシア抒情詩の様々な音調を再現」(ヘリングラード)しているとされ、「形式を再現する上での忠実」(ベンヤミン)とされるその訳業、ぜひ見てみたいところ。

西田哲学

少し前からの続きという感じで、西田哲学についての比較的新しく入手しやすい参考文献(というか入門書・概説書)をずらずら眺めてみる。ベルクソンやドゥルーズとのパラレルな問題機制を取り上げた檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』(講談社現代新書、2005)は、西田哲学のキータームをめぐりながらタイトル通り「生命論」としての側面に光を当てている。初期の意識論的な議論から中期・後期の論理学的・トポス論的な議論への移行に、生命論的な側面が介在しているというふうに読める、ということか。これと対照的なのが、永井均『西田幾多郎–<絶対無>とは何か』(NHK出版、2006)。こちらはむしろ意識論の中核部分から言語哲学の面を拾い出し、その延長線上で絶対無などのタームを考えていこうとしている。こちらはヴィトゲンシュタインなどが引き合いに出されたり。どちらの本も現代的な問題圏からの読みということで、重なる部分も多いものの、置かれている力点の違いが西田哲学の「いろいろな読まれ方」を示唆していて興味深い。

で、そういう読みができるようになる土壌が整ったのは、やはり中村雄二郎の著書あってのことかと思われる。83年の『西田幾多郎』は岩波現代文庫で『西田幾多郎 I』となっているけれど、西田哲学の全体像のまとめや同時代的な言及(中江兆民とかまで)、その概説の批判的な冴えなどからしても、やはりこれがスタンダードな入門書かな、と。同書を見て、上の二書とも違う方向性に引っ張るとしたら、それは「媒介」論のほうではないかという気がした。媒介概念は結構重要な位置づけになっていると思うけれど、それを軸にして全体を見直す、みたいなことも可能ではないか、と。これは案外興味深いものになるかもしれないし。とりあえずは、87年の『西田哲学の脱構築』が『西田哲学 II』として同じ岩波現代文庫に入っているので、これも近々見てみることにしよう。

「東京裁判における通訳」

武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房、2008)を読む。みすず書房は通訳学関連本をいくつか出し始めていて、改めてちょっと注目かしら。今回の同書は東京裁判の通訳体制の詳細を論じた初の本ということで、なかなか興味深い。ニュルンベルク裁判は同時通訳体制ができていたというけれど、東京裁判は逐語通訳だったのだそうで、通訳そのものは外務省関係者やGHQで翻訳をやっていた人たち、つまりは日本人で、通訳モニター(チェッカー)役に日系二世の人々がたずさわり、その上に言語裁定官という日本語を学んだアメリカ人が就いたのだという。この言語裁定官というのには、日常会話程度しか日本語ができないアメリカ人が就いたりしたのだという。末端にあった日本人の方がはるかに矜恃も能力も上だったという話もあるし。「米軍は敵国の言語をよく学ばせていた」という通説も、もしかしてそれほどのものではなかったのかも、なんてことを思わせたりもする。

同書で一番の読ませどころは、東条英機の裁判記録や音声記録から、通訳業務やモニターの介入、言語的な混乱や対応のディテールを拾ったという第4章。基本的に社会学的な視点でのまとめなので、それぞれの行動や力関係に力点が置かれた記述になっているけれど、これ、見方を変えると通訳が現場で実際に出会う様々な実際的問題の具体例にもなっている。つまり同書で示されている誤訳や訂正などの動きは、今も昔も変わらない通訳技術の問題として検証するにも値するかな、と。個人的には、そういうまとめ方を期待して読んでいたのだけれど……(ぜひ、そういう方向でのまとめも今後お願いしたいところ)。でも、それだと東京裁判の具体像が薄れてしまうわけで、初の研究書としてはこれで良かったのだろうなとも思う。