「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

物体としての本

今福龍太『身体としての書物』(東京外国語大学出版会、2009)を読んでいるところ。まずこの出版元。ついに外語にも出版会ができたようで(笑)、今後のラインアップも楽しみではある。大学の出版会も全般に懐事情は厳しい、みたいな話も聞こえてくるけれど、頑張ってほしいところ。で、この本。内容は、ボルヘス、ジャベス、ベンヤミンの書物論をきっかけとして、書物の受容というか知的営為との関わりというかを、書物のマテリアルな面との関係性で論じた一連の講義録。活版印刷以後を主に扱っているのだけれど、個人的にとりわけ引き寄せられた(笑)のは「口誦から文字へ」と題された第4章。ボルヘスの講演集を読み進める形で、プラトン以前となる古代の知の伝達の様が取り上げられている。ボルヘスは、口承文化の時代において「師の言葉は弟子を拘束しない、弟子は師の思想を自由に発展させることができた」みたいなことを言っているというのだけれど、うーむ、このあたりはどうなのだろう?口承による思想の継承というのは、ちょっと違う次元のものだったのではないのかしら、という気もしなくない(?)。師(というか先達)の思想をいじるということはそもそも、書物による知の伝達においてこそ導かれる、あるいは発想されるという気がするのだけれど……。注解書なんてまさにそういうものだし。でもまあ、確かに写本製作、とりわけ筆写作業などには、一方で口承性の残滓という面もあったのかもしれない……。

一般論だけれど、書物論が印刷本を主に論じるのは良いとして、やはりそれ以前の写本文化ももっと十全に視野に入れてほしい気はする。注解書が出てくるというのはもちろん文字文化の賜物だけれど、その前段の口承での知的伝達の伝統がどれほどそこに流れ込んでいるのかとか、とても気になってくる。ピエール・アドあたりをもうちょっとちゃんと読んでみるか……?

外在化するイメージ

技術哲学という狭い括りなどには到底収まらないジルベール・シモンドン。で、昨年秋に刊行されたその1965年から66年の講義録を読み始めたところ。『イマジネーションとインヴェンション』(Gilbert Simondon, “Imanigation et invention”, Les Editions de la transparence, 2008)。うん、まだ序論から第一部へと進んだばかりのところだけれど、期待通りめっぽう面白い。シモンドン哲学の基本的なパースペクティブは、事物のプロセス性を描き出していくこと。生物の発達などとパラレルに、技術産品(技術対象物)などもまた絶えず変化を繰り返していくものとして描かれる。しかもそれは、内的・潜在的に含まれているものが外在化するプロセスだとされる。で、この講義では「イメージ」を同じくプロセス描写の俎上にのせている。この場合のイメージは人間(あるいは生物)が抱く内的なイメージから、実際に外在化する図像、さらには他の事物に付される「イメージ」まで、およそイメージ(イマージュ)という語がカバーする広範な領域をそっくりそのまま扱おうとしている。そしてそれを、生成・定着・対象化という大まかな三段階の外在化サイクルの観点から詳細に描こうとしている。

シモンドンはマクロ的なプロセス指向だけれど、イメージの外在化という話はミクロ的・現象学的な文脈で見ることもでき、その場合、ファルクがやっていたように中世の神学・哲学的議論をそこに読み込むこともできる。これも前に挙げたスアレス=ナニの『天使の認識と言語』がらみだけれど、トマスが持ち出す知的形象(スペキエス)というのも、そうした現象学的な「イメージの外在化」の取っかかりになりそうな話。トマスによる天使の認識論においては、天使は自己認識に関しては神と同様に即一的に理解するものの、天使相互の認識では、神によってもたらされる知的形象(スペキエス)を介在させざるをえないとされる(スペキエスは人間の認識でこそ大活躍するものだけれど)。スアレス=ナニはここで、スペキエスもまた天使から人間にいたる被造物の階級秩序の中で階層化されていて、上位のものが下位のものを包摂する関係にあることを指摘している。これ、上位にいくほど形象の外在性の度合いが低くなっていくというか、内・外のそもそもの区別が撤廃されていくというか。すると上位方向へのアプローチは、外在化プロセスを逆に辿るということに……。逆に下位方向への発出論的な話も(トマスは一部アヴィセンナ的な発出論を継承しているわけで)、形象の外在化プロセスとして読み返せるということに……(?)。

雑感 — メディオロジーからメジオロジーへ?

行きつ戻りつ読んでいるのであまり進んでいないけれど、昨年末くらいから山田晶『トマス・アクィナスの<レス>研究』(創文社、1986)を眺めている。その3-IV「レスの個物性」という論考に、個物の属性について考えるなら、その多くが他の個物との関係性(流動する関係)に還元されてしまい、それを徹底するなら「個物」概念そのものが成立しなくなる、宇宙そのものが渦動と化してしまう、みたいなことが記されている。もちろんトマスの「宇宙」はそういうものではない、ということになるわけだけれど、上の「属性の関係性への還元」と、「その徹底化による個物概念の消失」という点については、個人的にやや留保をつけておきたいところ。関係性というか、やや俗っぽく言うならプロセス実在論だけれど、これと個物概念が両立しないというのはちょっと疑問かも。むしろ流れの中の「浮島」として、個物概念はますます存在感を高めていく気がする。なにしろその場合、浮島がその姿を留める内的な原理が問題になってくるのだから(最近は生物について動的平衡なんて言い方もされるけれど、個体の存立を理論化するのはそれだけでは不十分な気がするし)。

そういう意味では、組織化論というのはとても重要なものになりそうだ。それはまさに「浮島」をそのものとしてつなぎ止める原理へのアプローチだから。組織化論と一口で言っても、一般論的・形而上的な超マクロ(あるいは超ミクロでもいいが)なレベルから、より具体的な生体のミクロな組織論、さらには社会学的なマクロな組織論までいろいろありうる。すっかり忘れ去られているけれど、レジス・ドゥブレが提唱したメディオロジーなんてのも、本来はそういう社会学的なレベルでの組織論、ポイエーシス論を目指していたものだった。で、紹介から10年ぐらい経った今思い返すと、そこに足りなかったのは、むしろより一般論的なレベルの議論だったような気がする。シモンドンやドゥルーズを着想源としていたと思うけれど、プロセスの中で個体相互が織りなす媒介作用といった話には向かっていかなかった。下流に身を置くことを信条として(とドゥブレは語っていた)上流を目指さないんだもの。今にして思えばその点は残念。というか、今からでも遅くないから、そういうレベルのシフトを行ってもいいんじゃないかしらんと。そのためには名称すら変えてしまって、メディオロジーじゃなくメジオロジー(mesiology 中位学?)みたいにするとか(笑)。いやいや真面目な話。要はプロセス実在論的な観点から「媒介作用」の何たるかを考察する、という方向性だ。これ、先の西田哲学にも絡んでくる話だし、もちろん中世神学などの議論にも関係する。果たして軸線になりうるか?

翻訳論集成

ドイツ系の近代の翻訳論を集めた『思想としての翻訳』(三ツ木道夫編訳、白水社)。ロマン派あたりの翻訳論だけあって、中身もかなり文学論寄りで、ときにある種の思いこみのような議論に貫かれていたりもするのだけれど(笑)、とにかく翻訳の対象が主にギリシア・ラテンといった古典語で(さすがロマン派)、ドイツのそのあたりの豊かな伝統に思いを馳せることができる。とりわけヘルダーリンの訳業が高く評価されているところが印象的。ノイベルト・フォン・ヘリングラードなどは、他の凡百の翻訳が原典からいろいろに隔たってしまうのに対して、ヘルダーリンのピンダロスの訳は、逐語訳との批判を受けるほどに通常のドイツ語からすれば破格であろうとも、「一つの原理から生まれた統一体」であり、「原作の芸術としての性格を再現しよう」としたものだ、と絶賛している。ベンヤミンもまた、ヘルダーリンの翻訳を「翻訳の原像」だと断定する。ベンヤミンは翻訳の考え方として、意味すら超えた、意味の彼方にある作品としての本質そのもの(純粋言語と称される)を目指すべきだといい、一種の超越論、あるいはイデア論的な理想を掲げている……。個人的にはヘルダーリン訳そのものを見たことがまだないのだけれど、「ギリシア抒情詩の様々な音調を再現」(ヘリングラード)しているとされ、「形式を再現する上での忠実」(ベンヤミン)とされるその訳業、ぜひ見てみたいところ。

西田哲学

少し前からの続きという感じで、西田哲学についての比較的新しく入手しやすい参考文献(というか入門書・概説書)をずらずら眺めてみる。ベルクソンやドゥルーズとのパラレルな問題機制を取り上げた檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』(講談社現代新書、2005)は、西田哲学のキータームをめぐりながらタイトル通り「生命論」としての側面に光を当てている。初期の意識論的な議論から中期・後期の論理学的・トポス論的な議論への移行に、生命論的な側面が介在しているというふうに読める、ということか。これと対照的なのが、永井均『西田幾多郎–<絶対無>とは何か』(NHK出版、2006)。こちらはむしろ意識論の中核部分から言語哲学の面を拾い出し、その延長線上で絶対無などのタームを考えていこうとしている。こちらはヴィトゲンシュタインなどが引き合いに出されたり。どちらの本も現代的な問題圏からの読みということで、重なる部分も多いものの、置かれている力点の違いが西田哲学の「いろいろな読まれ方」を示唆していて興味深い。

で、そういう読みができるようになる土壌が整ったのは、やはり中村雄二郎の著書あってのことかと思われる。83年の『西田幾多郎』は岩波現代文庫で『西田幾多郎 I』となっているけれど、西田哲学の全体像のまとめや同時代的な言及(中江兆民とかまで)、その概説の批判的な冴えなどからしても、やはりこれがスタンダードな入門書かな、と。同書を見て、上の二書とも違う方向性に引っ張るとしたら、それは「媒介」論のほうではないかという気がした。媒介概念は結構重要な位置づけになっていると思うけれど、それを軸にして全体を見直す、みたいなことも可能ではないか、と。これは案外興味深いものになるかもしれないし。とりあえずは、87年の『西田哲学の脱構築』が『西田哲学 II』として同じ岩波現代文庫に入っているので、これも近々見てみることにしよう。