ハイデガーの技術論ということで、『技術への問い』(関口浩訳、平凡社、2009)から表題の講演を読んでみる。技術の本質について考察したハイデガーの代表的技術論だ。ハイデガーは自然を伏蔵性(Verborgenheit)から不伏蔵性へといたらしめることを「開蔵」(entbergen)と称し、これを人間が自然に向ける基本姿勢と見なす。どうやらこれは、自然の諸側面になにがしかの有益性を見出すというプロセスのことらしい。そして人間は自然の側からの「挑発」でもって、そうした開蔵を促される。なるほど、ここには相互関係があるというわけだ。で、技術はその開蔵の「ひとつのしかた」なのだという。自然はかくして人間にとっては<使えるもの>(「用象」(Bestand)という用語が当てられている)としてアフォードされ、認識される。ややこしいのは、この場合の自然、つまり<使えるもの>には人間もまた含まれてしまうということ。つまり現実的なものはすべて「用象」になってしまう。この「挑発」の構造を支えるものは何か。それがあの有名な立て組み(Gestell:同書では集-立と訳出されている)という構造だということになる。人は外的な関係の構造上、立てて組まずにはいられない、集めて立てずにはいられない、と。
ハイデガーはこの後、立て組みにもとづくこの技術という開蔵のしかたが、一つの命運として生きるしかなく、不伏蔵的なものの本質(たとえば、そのものとしての自然とか)にアクセスする可能性は閉ざされてしまうとし、人間には不伏蔵的なものを見誤る危険がつきまということを指摘する。別の開蔵のしかたはあらかじめ閉ざされているというわけか。ひとたび用象となってしまえば、対象として捉えること(つまりは本質的に理解する)はできなくなる、つまり人はもはやモノ(他の人も含めて)を使えるかどうか、どうすれば使えるようになるかでしか見なくなる……。なにやらすべてがエコノミーだ、エコノミーがすべてだとか乱暴なことをぬかすような経済学者を連想してしまう(笑)。人間を取り巻くすべてを用象にしてしまえば、結局はあらゆるものがインフレ的に一元化し脆弱にならざるをえない、ということなのだろう。
ではどうするのか。ハイデガーはここでいきなり反転的な楽観論を語り出す。危険のあるところには救うものもまた育つというのだ(出典はヘルダーリンだという)。集-立が技術を本質的に支える構造であるとするなら、そこに、本質が別の形で姿を現す可能性もあるのではないか、集-立そのものから「叶えるもの」(本質=真理の語源的解釈から出される用語だが……)という開蔵の固有性(本質)も出来するのではないか、というのだ。両者はちょうど表裏一体のような関係にあるとされているのだが、このモデルはどうなのか……。ハイデガーは、そうした裏側の本質的部分の出来を見据え、ささやかにその成長を見守るしかない、といったことを考えているようなのだが、その希望の道筋はあまりにもか弱い。この危険と希望のあまりの落差(とされを平然と語るハイデガーの淡々とした口調)にはちょっと面食らう。というか閉口してしまう。すべてが一元化し猛威を奮うような世界にあって、そのような希望もまた呑み込まれてしまわない保証はどこにもないのではないか。ハイデガー自身も「技術時代には危険は示されるのではなく、むしろなお伏蔵されるのであるが」と留保をつけているではないか。別様の開蔵の可能性は、ただlaisser-faireにまかせておいていいのか、そこにもまたなんらかのプログラムが必要なのではないか。そんなことを改めて強く思う週末読書だ……。