ちょっと思うところもあって、岩波文庫で最近刊行された田辺元哲学選から『懺悔道としての哲学』(藤田正勝編)を読んでいるところ。うーん、これはある意味難儀な書だ。戦前に発表された『種の論理』では、個と類の中間にあるものとして国家を「類」に重ねて、まさしく近代国家称揚を説いているのだけれど、戦後すぐに出たこちらでは、戦争への流れを止めることができなかったという痛烈な思いをにじませ、「懺悔道」なる新機軸を提唱している。ある意味とても時代の空気に密着・連動している感じで、西田哲学の、どこまでも極北をめざすみたいな超然とした方向性とはやや赴きが異なっている。序には、個人的な体験に発するその反転の動きを体系化しようとする試みだといったことが記されている。懺悔道と言われるものは要するに、個人の無力を突き詰めていくと、それは絶対的な無への帰依という形で反転され、まさしく仏教的な他力本願の思想へと昇華させることができる……ということで、一種のニヒリズム克服のプログラムであるはずなのだけれど、なにやら反転へのプログラムというよりも、そうした反転を経た後でふりかえるところから逆に西欧の哲学を斬っていくことに主眼があるように見える(それはまだ読み終えていないから?)。プログラム的な側面からすれば、おそらく自力から他力へのシフトというところがとても重要になるのだろうけれど、そのあたりはあまり詳述されてはいない印象。一方、西欧の哲学的伝統を批判するという側面では、他力の側から自力を批判するという構図で、たとえばエックハルトについて、自己の否定を通じて絶対者への帰依へといたるという面が懺悔道に一致するとしながらも、それが自力ベースの実存哲学であるという側面では懺悔道の対極にあると批判したりしている。けれどもこの両義的なエックハルト像が、ルドルフ・オットーとケーテ・オルトマンスのそれぞれの書の解釈に依存しているというあたり、なんだかなあという気がしないでもない。そんなわけでこれは、存外に扱いに困る書という印象が強い(苦笑)。おそらくこの書の真価が問われるのは、プログラム部分をより普遍的・有意義的に取り出せるかどうか(それにはむしろ、これまた同書が依拠している親鸞を読むほうがよいような気もする)、そういう読み方ができるかどうかにあるのだろうが……。