A. スカルラッティの「晩課」

昨年が生誕350年ということでメモリアルイヤーだったアレッサンドロ・スカルラッティ。で、それに合わせて世界初録音という触れ込みで登場していたのが、その『聖母マリアの夕べの祈り』(スカルラッティ、アレッサンドロ(1660-1725)/Vespro Della Beata Vergine: Van Der Kamp / Nederlands Chamber Cho)。うーむ、これもまた文句なしの名曲。なにかとても高揚感のある軽やかで美しい旋律が巧みに交差する、とても甘美な音楽世界。うーむ、ハマったな、これは。これまで録音されていないことが不思議なくらい……と思ったら、これ、まとまった形では残っておらず、収録に際してあちらこちらに点在する楽譜を集めて再構成したものなのだという。なるほど、ちょっと曲数が少ないのもそのためか。ちなみにこの録音は、詩編ベースの5曲(109: Dixit Dominius, 112: Laudate pueri Dominum, 121: Laetatus sum, 126: Nisi Dominus aedificaverit, 147: Lauda Jerusalem Dominum)と、Ave maris stella、Magnificatから成る。演奏はハリー・ヴァン・デル・カンプ指揮でオランダ室内合唱団。NAXOSライブラリーにも入っている(こちら

オリヴィ関連論集から

船便になってしまったらしく、注文から二ヶ月かかってようやくオリヴィ関連でぜひとも見ておきたい論集が届いた。カトリーヌ・ケーニヒ=プラロングほか編『ペトルス・ヨハネス・オリヴィ:哲学者兼神学者』というもの(“Pierre de Jean Olivi – philosophe et théologien”, ed. Catherine König-Pralong et al., De Gruyter, 2010)。2008年にフライブルク大学(スイス)で開かれたシンポの論集。ほぼ最新の成果満載といったところ。全体として、オリヴィの質料形相論がらみの議論が大きく取り上げられている印象だ。というわけで早速、編者の一人でもあるケーニヒ=プラロングの「オリヴィと存在論的形相主義:アリストテレスとアヴェロエスの読解、アルベルトゥスの批判者?」という論考に目を通す。いきなりこれがめっぽう面白い(笑)。

オリヴィは基本的に、神以外の被造物はすべて質料(的なもの)と形相(的なもの)から成るという立場を取る(メルマガでも取り上げているけれど)。魂のようなものすら質料と形相から成るとされる。ところが、一方でアリストテレス(『形而上学』の7巻(Z巻))は、人間において魂は肉体に先行するものであり、肉体は人間の定義から外されるという見解を示し、これが中世において形を変え、「魂は身体の形相であるか」をめぐる論争と化す。別の言い方なら、質料は人間の定義に関与するかどうかをめぐる論争だ。オリヴィは当然ながら、魂は形相と質料から成るとして複合体説を取る。で、その著作においては、それと敵対する形相説(魂は肉体の形相であるとする立場)が批判されるのだが、ではその形相説を唱えているのは具体的に誰なのか、という悩ましい問題が浮上する。なぜ悩ましいかというと、実際にはっきりと形相説を唱える論者というのが、オリヴィの同時代人にはなかなか見つからないという事情があるためだ。

一般に、形相説はアヴェロエスがアリストテレスを誤読して導入したとされるようなのだけれど、オリヴィはアヴェロエスには比較的好意的で、むしろアリストテレスが根本的な間違いをしていると指摘する。この大元を批判するというのは中世の論者ではかなり珍しいという。同論文はここから、オリヴィとは別の陣営のブラバントのシゲルスやトマスを取り上げていくのだが、それらの論者もむしろ複合体説に好意的だったりする(トマスすら、部分的形相と全体的形相を区別するなどして、人間イコール魂という単純な図式には反対しているという)。で、なんとここで、一つの可能性が指摘される。形相論の立場を取る人物として、アルベルトゥス・マグヌスが挙がるのではないか、というのだ(!)。うーむ、ちょっとこれには唸ったり(笑)。多少とも状況証拠的な面が強いような印象も受けるけれど、論考の流れとしてはなかなか見事な感じもする。検証のしがいもありそうな説ではあるし。この論集、こんな感じでほかにもいろいろと興味深い論考が並んでいるので、メルマガでも取り上げていきたいと思う。

再び技術と主体

このところ、アーサー・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』(伊藤茂訳、NTT出版)を読んでいる。基本的にはIT技術というか、サイバースペース的な話なのだけれど、原発などの近代技術全般を絡めて考えてみるともっと息の長い議論になりそうな気がする。というのも、これが扱っているのはハイデガーの立て組み概念の読み直しということだから。この著者によると、立て組みという概念は、外的なものを人間が「常備在庫」に仕立てるよう、存在そのものが呼びかける衝動だという。常備在庫(この用語が興味深い)化は、つまりは外的な対象物を「開発・変形・蓄積・配分・転換」するということであり、その(半ば自動的な?)サイクルに、人間の身体・自然(本性?)がそのエネルギーも含めてすべて注がれることになり、その結果何が起きるかというと、マルクスが半ばスルーしニーチェが別様に問題化したような人間主体の虚無化が促される、と。著者はこれをITっぽく「ヴァーチャル化」としているけれど、それは自動的なサイクルに巻き込まれることで主体そのものの関わりが希薄化・希釈化していくプロセスということになる。技術的な存在としての人間は、最終的に「純粋空間の中に姿を消してしまう」(p.86)ということになるらしい。著者いわく、それを予言したことがハイデガーの功績なのだ、と。外的対象を常備在庫に変えるという力学を支えているのは意志であり、上の半ば自動的なサイクルの中で、ひたすら意志を志向する「意志への意志」となってしまい、やがては対象すらともなわない意志が空虚に回りつづけるだけになってしまう……。

著者はこれをネットワークの時代の主体問題と見、現代がその新たな転換点を迎えているという形で肯定的な捉え直しを模索しようとしているようだけれど、事態はそれほど軽やかには進みそうにもない気がする。サイバー文化(デジタルアートなど)がどうこう言う前に、ハイデガーの問題系のもっと重苦しい部分に注目しなくてはならないのではないか、つまり、ハイデガーはその立て組みを人間の本質的な部分に絡めて論じているのではなかったかという点あたりから、再検証しなくてはならないのではないか、と。アリストテレス的な知のあり方が、人間にとってきわめて本質的なものであるのかどうか、主体の希薄化は果たして不可避的なものなのか、それともなんらかの方法で迂回できるものなのか。そうした問題を再考するために召喚できる思想がほかにないのかどうか(先の八木氏の本にあったような、パルメニデスの可能性も含めて)。「人ごとのようだ」とネットで揶揄される東電の会見の、どこか主体的虚無を部分的にせよ体現したような話し手の淡々とした表情を見るにつけ、技術と主体の問題がなにやらとても根深そうだということが改めて想起されてくる。

ラインケン

しばらく音楽関連のコメントを休んでいたけれど、ぼちぼちと再開していこう。少し前からお気に入りになっているのが、スティルス・ファンタスティクスというグループによるヨハン・アダム・ラインケン(Johann Adam Reincken)の『音楽の園』第1巻(ラインケン、ヨハン・アダム(1623-1722)/Hortus Musicus Vol.1: Stylus Phantasticus。リュート奏者として個人的に注目度の高いエドゥアルド・エグエスが参加している(笑)。ラインケンは17世紀末から18世紀初頭に活躍した作曲家・オルガン奏者。スウェーリンクに師事し、後にハンブルクのカタリナ教会のオルガニストを務めたのだとか。『音楽の園』(1687)は6曲のパルティータから成る曲集で、今回のvol.1とされた録音ではそのcうちの1番、2番、4番、6番を収録している。『音楽の園』の録音はほかにパーセル・クァルテットの抜粋盤とかがある(NAXOSライブラリーにある)。聴き比べたわけではないので比較はできないけれど、少なくともこのスティルス・ファンタスティクス盤(率いるのはヴィオラ・ダ・ガンバのフリーデリケ・ホイマン)は全体的に落ち着いた雰囲気で個人的には大変好印象なのだな、これが。vol.2にも期待しよう。

プセロス「カルデア神託註解」 21

Ἡνίκα δὲ βλέψῃς μορφῆς ἄτερ εὐΐερον πῦρ
λαμπόμενον σκιρτηδὸν ὅλου κατὰ βένθεα κόσμου,
κλῦθι πυρὸς φωνήν.

Περὶ τοῦ ὁρωμένου πολλοῖς τῶν ἀνθρώπων θείου φωτὸς τὸ λόγιον διέξεισιν ὡς, εἰ μὲν ἐν σχήματι καὶ μορφῇ θεῷτό τις τὸ τοιοῦτον φῶς, μηκέτι τούτῳ προσοχέτω τὸν νοῦν, μηδὲ τὴν ἐκεῖθεν πεμπομένην φωνὴν ἀληθῆ νομισάτω. Εἰ δὲ ἴδοι τοῦτο ἀσχημάτιστον καὶ ἀμορφωτον, ἀνεξαπάτητος ἔσται· καὶ ὅπερ ἂν ἐκεῖθεν ἐνωτισθείη, ἀληθής ἐστιν ἄντικρυς. Εὐΐερον δὲ τὸ τοιοῦτον πῦρ ὀνομάζεται, ὡς ἐν καλῷ τοῖς ἱερατικοῖς ἄνδρασιν ὁρώμενον καὶ ¨σκιρτηδὸν¨ προφαινόμενον, ἤτοι ἱλαρῶς καὶ χαριέντως, κατὰ τὰ βάθη τοῦ κοσμοῦ.

「聖なる火が形をともなわずに輝き、
世界全体の奥底で跳ね回るのを見たら、
その声に耳を傾けよ」

多くの人々が目にする神の火について、神託は次のように語っている。もしなんらかの火が、姿や形をともなって見られたなら、もうそれに意識を向けてはならないし、そこから発せられる声を真理と見なしてはならない。だがもしそれが姿や形をともなっていなかったら、それが偽りでないことは確かだろう。また、そこから聞こえる声は、まさしく真のものである。そのような火が聖なる火と呼ばれるのは、それが特に聖職者によって目撃され、しかも世界の奥底で「跳ね回る」ように、つまり楽しげにかつ喜ばしげに現れるからである。