空き時間読書ということでしばらく前から読んでいるのが、ドナルド・デイヴィドソン『真理・言語・歴史』(柏端達也ほか訳、春秋社)。ざっと半分まで来たところ。というか、その有名な(?)<言語なんて存在しない>テーゼが示された論考「墓碑銘のすてきな乱れ」を読むというのが当座の目標だった。で、この論考、評判通りというべきか、確かに面白い問題を提起している。これと、それへの反論に再反論した続く「言語の社会的側面」をまとめてメモっておこう。デイヴィドソンの基本的な立場は次の点にある。コミュニケーションの成功(つまり話者の意図が受け手に理解されること)は、解釈者が「個々のある場面で個々のある発話をどのように解釈するのかを知る」(これを当座理論と称している)ことにかかっている。それはその都度生起するものであって、あらかじめ準備された規則の束のようなものを厳密に遵守することが前提になるものではない。したがって、言語学者・哲学者などが思い描くような言語というものは存在しない、と。デイヴィドソンはこの当座理論の共有を、言葉の誤用(malaproprism)の分析から導き出している。
これはつまり、エノンセ(言表)だけがあるとして、ラング(コードとしての「言語」)というものの先行性を否定する立場か。つまりは「類」概念の否定ということなのだけれど、これだとたとえば言語的規範に従おうとするような意志の拘束力が説明できないことになってしまう。デイヴィドソンはそれに、修正する義務感が生じる場面の分析で対応している。誤用に気がついて修正しようとするような場合、先に合わせるべき言語的規範があるのではなく、あくまで理解されたいという欲求があるのみで、そうした欲求によって、相手に意図を伝えられるような仕方で話すという唯一の義務が、いわば欲求と同時的(事後的?)に生じるだけなのだ、というのである。共同体的な規範に従うように見えるのは、偶然の産物でしかないというのだ。なるほど、きわめて唯名論的な議論ではある。とはいえこれは、一方において、話し手のうちに「当座理論」の成功体験という形である種の蓄積ができることは想定されているようにも読める。もちろん、そういうふうな理解でいいのかどうかはまだ不明だが……(苦笑)。言語という名で考えられているような確固たるコードの束ではないかもしれないけれど、当座理論が運用されるプロセス自体は名辞で名指しうるものとして実在しうる(プロセス自体がそれを可能にする)としたら、これはある種のプロセス実在論(きわめて限定的・狭義の)だと言うこともできるかもしれないなあ、と。そのプロセスがコミュニケーションの成功という共有の実践、ひいては意味を産出することからして、それが種に類するものとされうることは明らかだ。