このところ、アーサー・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』(伊藤茂訳、NTT出版)を読んでいる。基本的にはIT技術というか、サイバースペース的な話なのだけれど、原発などの近代技術全般を絡めて考えてみるともっと息の長い議論になりそうな気がする。というのも、これが扱っているのはハイデガーの立て組み概念の読み直しということだから。この著者によると、立て組みという概念は、外的なものを人間が「常備在庫」に仕立てるよう、存在そのものが呼びかける衝動だという。常備在庫(この用語が興味深い)化は、つまりは外的な対象物を「開発・変形・蓄積・配分・転換」するということであり、その(半ば自動的な?)サイクルに、人間の身体・自然(本性?)がそのエネルギーも含めてすべて注がれることになり、その結果何が起きるかというと、マルクスが半ばスルーしニーチェが別様に問題化したような人間主体の虚無化が促される、と。著者はこれをITっぽく「ヴァーチャル化」としているけれど、それは自動的なサイクルに巻き込まれることで主体そのものの関わりが希薄化・希釈化していくプロセスということになる。技術的な存在としての人間は、最終的に「純粋空間の中に姿を消してしまう」(p.86)ということになるらしい。著者いわく、それを予言したことがハイデガーの功績なのだ、と。外的対象を常備在庫に変えるという力学を支えているのは意志であり、上の半ば自動的なサイクルの中で、ひたすら意志を志向する「意志への意志」となってしまい、やがては対象すらともなわない意志が空虚に回りつづけるだけになってしまう……。
著者はこれをネットワークの時代の主体問題と見、現代がその新たな転換点を迎えているという形で肯定的な捉え直しを模索しようとしているようだけれど、事態はそれほど軽やかには進みそうにもない気がする。サイバー文化(デジタルアートなど)がどうこう言う前に、ハイデガーの問題系のもっと重苦しい部分に注目しなくてはならないのではないか、つまり、ハイデガーはその立て組みを人間の本質的な部分に絡めて論じているのではなかったかという点あたりから、再検証しなくてはならないのではないか、と。アリストテレス的な知のあり方が、人間にとってきわめて本質的なものであるのかどうか、主体の希薄化は果たして不可避的なものなのか、それともなんらかの方法で迂回できるものなのか。そうした問題を再考するために召喚できる思想がほかにないのかどうか(先の八木氏の本にあったような、パルメニデスの可能性も含めて)。「人ごとのようだ」とネットで揶揄される東電の会見の、どこか主体的虚無を部分的にせよ体現したような話し手の淡々とした表情を見るにつけ、技術と主体の問題がなにやらとても根深そうだということが改めて想起されてくる。