プセロス「カルデア神託註解」 20

… τολμηρᾶς φύσεως, ἄνθρωπε, τέχνασμα.

¨Τέχνασμα¨ μὲν γὰρ ὁ ἄνθρωπος ὡς παρὰ θεοῦ ἀπορρήτῳ τέχνῃ συντεθείς. τολμηρὰν δὲ φύσιν αὐτὸν ὀνομάζει τὸ λόγιον ὡς καὶ τὰ κρείττονα περιεργαζόμενον καὶ δρόμους μὲν ἀστέρων καταμετροῦντα ὑπερφυῶν δὲ δυνάμενων τάξεις διακριβοῦντα καὶ τὰ ἐξωτάτω τῆς οὐρανίας ἁψῖδος διασκοποῦντα καὶ περὶ θεοῦ τι λέγειν διατεινόμενον. Αἰ γὰρ ἐπιβολαὶ αὖται τῶν νοημάτων ¨τολμηρᾶς¨ ἄντικρυς ¨φύσεως¨. Οὐ διασύρει δὲ ἐνταῦθα τὴν τόλμαν, ἀλλὰ τὴν ὁρμὴν τῆς φύσεως τέθηπεν.

「……大胆なる自然の産物、人間よ」

「産物」であるというのは、人間が神により、言葉にしえない技によって作られたからである。神託がそれを大胆なる自然と称しているのは、それがより上位のものを密かに観察し、星々の運行を計測し、計り知れない力の序列を精査し、最果ての天の穹窿を検証し、神について何かを言おうと努力するからだ。そのような思惟の動きこそ、まさに「大胆なる自然」である。そして神託は、その大胆さを粉砕するのではなく、自然の飛躍を驚きであるとしている。

Λαιῆς ἐν λαγόσιν Ἑκάτης ἀρετῆς πέλε πηγή,
ἔνδόν ὅλη μίμνουσα, τὸ παρθένον οὐ προιεῖσα.

Τὴν Ἑκάτην οἱ χαλδαῖοι θεὸν ὁρίζονται μεσαιτάτην ἔχουσαν τάξιν καὶ οἷον κέντρον τυγχάνουσαν τῶν ὅλων δυνάμεων. Καὶ ἐν μὲν τοῖς δεξιοῖς αὐτῆς μέρεσι τιθέασι τὴν πηγὴν τῶν ψυχῶν· ἐν δὲ τοῖς ἀριστεροῖς, τὴν πηγὴν τῶν ἀρετῶν· καὶ φάσιν ὅτι ἡ μὲν πηγὴ τῶν ψυχῶν ἕτοιμός ἐστιν εἰς τὰς ἀπογεννήσεις, ἠ δὲ πηγὴ τῶν ἀρετῶν ἐν ὅροις μένει ἔνδον τῆς ἰδίας οὐσίας καὶ οἷον παρθένος ἐστὶ καὶ ἀμιγής, τὸ στάσιμον τοῦτο καὶ ἀκίνητον ἀπὸ τῶν ἀμειλίκτων λαβοῦσα δυνάμεων καὶ ζωστῆρι κοσμηθεῖσα παρθενικῷ.

「ヘカテーの左脇にいずるは美徳の源
すべてはその中にとどまり、純潔も破られることはない」

カルデア人たちはヘカテーを、序列の中間に位置づけ、あらゆる力の中心であると考えている。そしてその右側には魂の源を、左側には美徳の源を置いている。さらに彼らは、魂の源はすぐに産出できる状態にあると述べている。美徳の源のほうは、個々の実体の境界内部にとどまり、純潔および純粋さのごとくにあるとされる。その静止と不動を容赦なき力から汲み取り、純潔さの帯を身に纏うのである。

トロープ理論再び

間接的に関係するだけなのでと、後回しにしてきた一冊にようやく目を通す。『現代形而上学論文集』(柏端達也ほか訳、勁草書房、2006)。分析哲学方面の重要な論文のいくつかを訳出した、日本オリジナルの一冊。普遍と個別の問題などが取り上げられているので、それなりに面白い。ただ、アリストテレスあたりから受け継がれた機能主義というか、科学的な分解と再構成の手法の行き着く先という、今とてもアクチャルな問題機制との関連で眺めると、正直なところ、これが本当に豊かな哲学的地平を開くのかどうかという点で居心地の悪さを感じたりもする。ま、それはともかく。個人的な関心からすると、とりわけ興味深いのは後半の大きな部分を形作る二つの論考。デイヴィド・ルイスの「普遍者の理論のための新しい仕事」と、ピーター/サイモンズ「個別の衣をまとった個別者たち」だ。

ちょっと乱暴にまとめてしまうと(苦笑)、前者は基本的に、普遍者を想定する代わりにクラス的なものとしての性質を前面に出すことを提唱する。そのために、自然的性質という、モノを指示する上での適格性を備えた性質を仮構している。後者はというと、いわゆるトロープ(個別者の備える性質)理論についての議論。指示できるようなモノをトロープがどのように成立させるかという問題について、従来の「束説」「基体説」の難点を指摘し、両者の折衷案のような形で「核説」を提唱する。トロープが束をなすという一つめの説は、全体を取りまとめる結合に難点があるようで、フッサールのようにトロープを部分と見る立場や、オッカムなどに端を発するモード(仕方、様態?)として見る立場など、いずれも偶然的トロープと本質的トロープの区別が考慮されないという。基体説はアリストテレスの第一質料にまで遡れる議論だというけれど、その立場ではトロープと物的実体との関係が説明されずに残ってしまうという。そこで出てくるのが、核をなすトロープとそれに引き連れられる偶然的トロープという考え方だ。これはどうやら素粒子などのイメージを重ね合わせたものらしいことが最後のほうで語られている(ここでいう核が、nucleusなどの名で呼ばれているのは示唆的かもしれない、なんて)。

両論考は、クラス的なものとするか個別の側のものとするかはともかく、いずれも性質をモノの実体を構成するものとして取り上げている。けれどもその「性質」は実体未満かつ理論的な仮構物という側面が強く、ひどく静的な概念だという印象を受ける。ここはやはり、どこか大陸的な感性でもって(?)、ぜひとも動的な概念装置を持ち込んでもらいたい気もしなくはない(笑)……そんなことが可能かどうかはわからないけれど……。ま、それとは別に、原論文は前者が83年、後者が94年ということで、両者間の開きもあるし、今現在の最新鋭の議論はまたずいぶんと違っているのだろうと思う。ちょっとその後がどうなっているのか、改めて少し探ってみたい気もしている。

コーンウォールのリチャード・ルフス

フランシスコ会系の思想をわずかながら追いかけているのだけれど、また新たな人物登場(笑)。コーンウォールのリチャード・ルフス。この人物に関するレガ・ウッドの論考(Rega Wood, ‘Richard Rufus of Cornwall on Creation: The Reception of Aristotelian Physics in the West’ in “Medieval Philosophy and Theology, vol. 2”, 1992 →PDFファイルはこちら)を読む。リチャード・ルフスはヘイルズのアレクサンダーやボナヴェントゥラとほぼ同期で、フランシスコ会を知的一大勢力にすることに貢献した人物だという。ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の初期の注解者でもあり、思想的にはアリストテレスの受容に関してなかなか微妙な立ち位置である様子。この論考では、「世界の永続性」「無からの創造」といった、アリストテレス思想とキリスト教との一大反目点について、ルフスのちょっと変わった解釈を、しかも著作別(つまりは年代別)の変化の様子を交えつつ詳しく紹介している。というわけで早速、若干のメモ。

年代的に最も早いらしい『自然学注解』(1235年頃)では、時間論において興味深い考察を行っている。「今」について、現世的(時間的)「今」と永遠の「今」の二つがあるとし、この後者は過去の終わりでも未来の始まりでもない、まさしく永遠の相のもとにある「今」ということとされる(すなわち神の「時」だ)。時間に始まりはないとするアリストテレスは、この両者を取り違えているということになる。ルフスはまた、過去は無限ではないという議論を取り上げているともいう(もとはフィロポノスにまで遡れるこの議論は、マイモニデスなどを経由して西欧に入り、オーベルニュのギヨームなどが取り入れているという。ルフスの場合、議論の仕方は先行するそれらのものとは異なるらしい)。さらにルフスは、アリストテレスの議論を取り上げてアリストテレス本人に反駁を加えたりもし、アリストテレスは真に解釈すれば世界は永遠であるとは言っていないはずだとまで主張するという。こうしたアリストテレスに「好意的な」解釈は、ヘイルズのアレクサンダーの影響によるものだそうな(!)。

続く『形而上学注解』(1238年以前)では、『自然学注解』のスタンスを残しつつも、全体的な見取り図は変化していて、アリストテレスへの「好意的」解釈はだいぶトーンが弱まっているらしい。どうやらこれはやはり同時代のロバート・グロステストの反アリストテレス的立場の影響によるものとのこと。なるほどグロステストは、アレクサンダーとは対照的なのか。で、ルフスへのその影響は1250年頃の『命題集注解』にいたっても明らかに見られる、と。ルフス自身の面白い議論も多少はあって、たとえば神の本質をそれ自体と見る場合と、外部の対象(被造物)との関係で見る場合との区別(創造によって神の本質は変化するのか、という問題への回答)などは、上の二つの「今」に重なる議論になっていたりするようだ。つまり神それ自体は永遠の今にあるものの、その発話は時間的秩序の中にありうる、というわけ。これもまあ、完全にオリジナルの議論ではなさそうだけれどね……。この論考の著者は、ルフスは自分の独自性こそ育まなかったものの、アリストテレス的な世界の永遠性に対する、その後も続く西欧の反論を系譜を先取りしていたと結論づけている。

うん、ルフスの質料形相論はどんな感じかが激しく気になるところだ(笑)。ちなみにこのルフスをめぐっては、邦語で読める論考として中村治「リチャード・ルフスの思想と写本」(2000)ほかがあるようだ。これは文献学的な研究で、大阪府立大学学術情報リポジトリ(こちら)からダウンロードできる。

不確定なものの「想定」

今回の原発事故についてよく聞かれる「想定外」という表現。以前は「想定の範囲内」なんて言葉が流行ったりもしたけれど、なにやら想定という言葉は、いつしか「有無」ではなく「範囲」を伴って使われるようになってしまっている……。ある特定の事象に思い至るかどうか、というスポット的なものではなくなり、ある特定の事象が思い至るエリア・面に入っているかどうかという、網をかけるような発想。この違いは大きい。前者の場合、その特定の事象に「思い至らなかった」、想定は「なかった」という「欠如・不在」のイメージが前面に出るのに対して、後者の場合、「一応いろいろ考えてはいたんだけれど、特定事象がそれから漏れてしまった」というニュアンスで、想定の「存在」の面が強調される。当該事象が思惟のうちに存在しなかったこと自体は同じでも、表現としてそれを取り巻く思惟に範囲を含ませることで、思惟の欠如が存在にすり替わってしまう。ここにすでに、その事象を問題として取り上げる姿勢の不誠実さがにじんでいるようにも見える。

もちろん、非常事態についてのいろいろな想定はあっただろう。けれどもそれを面のようなイメージで語るのは言葉の綾であって、こうした事故などの想定はやはりもっとスポット的・ピンポイント的なものでしかないように思える。個別の事象に思い至り、それに対応する対策を逐一構築するというのが基本であり、ある事象の想定と別の事象の想定が有機的に連動・連関しうるとは必ずしもいえない。結局、事故などの不確定なリスクについては、想定が及ぶ事象というのはもとよりきわめて限定的なものにしかならない。事故の可能性は無限にあるはずで、すべてを記述することは不可能であり、蓋然性の高いものを中心にどこかで絞り込むしかない。けれどもこのような絞り込みを伴う以上、「不確定要素を想定する」という行為自体は無数の取りこぼしを伴わざるをえない。しかしながら現実には、蓋然性の低いとされる事態も起こりえないわけではなく、そうした場合に既存の想定が応用できないことも十分ありうる。想定していたもので実効的な応用が利くとは限らないからだ。

このあたり、きわめて構造的な問題なのだが、なんだかかつていろいろ言われていた知識ベースのエキスパートシステムの話と重なってくるかのようだ。溝口理一郎「工学のオントロジー」(『環境のオントロジー』(春秋社、2008)によると、エキスパートシステムは「あまりにも直接的に解くべき問題を意識しすぎたため、他の問題を解くために、既に存在する知識ベースの一部を再利用するということが非常に困難」(p.69)だったとされる。その原因は知識ベースにおける「開発者が仮定している暗黙の前提の存在と、限られた世界の特定の問題の解決用に特化されているという二つ」(p.70)だという。知識工学はその後、「共有可能な知識ベース」「広範囲にわたる標準化された知識を多くの人の利用に供する知識ベース」(同)へと向かったという。こうして「対象世界自体の概念構造をモデル化するオントロジー」(同)が目されるようになった、と。

オントロジー(存在論)という名称がすでにして示唆的だが、要するにこれは一種の全体的なモデル化のイメージ。クラスをなんらかの形で表し(諸属性を定義づける)、インスタンスを生成して(現勢態を作る)、アクセスする(利用する)という、工学システムの設計などでソフトウエア的に使われる手法だけれど、おそらくは事故などの非常時の対応についても、エキスパートシステムからオントロジーにシフトしたのと同じような転換が求められるのではないか、という気がする。リスク対処法の抜本的な転換だ。イメージとしては、機械の場合には設計から組み上げ、運用・メンテナンスの諸段階があるわけだけれど、それらのすべてに一貫したリスク管理体制を組み込み、あるいは機械そのものにとどまらない、運用する側の組織までをもシステムの一部と見なしてリスク管理体制を構築するといったようなことが必要なのではないか、と。一例で言うならば、原発のようなリスクの高いものに事故が起きた場合に、通常運転時のスタッフとは別の、専門の訓練を積んだリスク管理部署が入れ替わって、機材その他を含めて現場を仕切るような体制を、本気で考えていく必要があるかもしれない。