これも少し間が開いてしまったけれど、久しぶりに医療史関係の論文に目を通す。これがまたやけに面白かった。フェイス・ウォリス「診断の発明:教室でのテオフィロス『検尿論』」(Faith Wallis, ‘Inventing Diagnosis: Theophilus’ De urinis in the Classroom’, Dynamis : Acta Hispanica ad Medicinae Scientiarumque. Historiam Illustrandam. vol. 20 (2000))。12世紀始めごろに成立し、16世紀ごろまで使われたという医学の教科書に、Articellaという書があるけれど、これは基本的に古来からの医学書をまとめたもので、きわめて文献的・理論的な性格が強いものだといわれる。ところがこれに、二つほど、もっと実用的な面をもった文書が入っているという。フィラレトスの心拍論と、もう一つがテオフィロス・プロトスパタリオス(7世紀、ビザンツ)の『検尿論(De urinis)』だ。尿の検査は膀胱の疾病などを始めとして古くから実践されていた技法らしいのだけれど、その技法が整備され、理屈がつくようになったのは古代後期(東ローマ、ビザンツ)から中世(サレルノ時代の初期)にかけてらしい。ガレノスの三段階の消化理論などが大きく影響しているという。
サレルノ以前は偽ガレノスの『検尿論』という文書(7世紀ごろに成立?)が主な文献だったらしいのだけれど、これは技法の有用性や解説、尿の色の区分けなどが記されているだけで、背景をなす生理学的な理由づけはないといい、文書全体も診断よりも予後を目的としているものとされる。これに対してテオフィロスの『検尿論』は、古来の伝統の総覧となっていて、尿が病気や不調の徴になるとして、検尿を診断のツールとして捉えているという。で、この文書は西欧に流入してさらに精緻なものになるらしい。『心拍論』はコンスタンティヌス・アフリカヌスの時代のサレルノですでに知られていたのに対して、『検尿論』がラテン語訳の成立年代や訳者などは不明とのこと。で、この『検尿論』の12世紀ごろの注解書がいくつかあり(シャルトルの写本、ディグビー・グループの写本(これらは逸名著者)、サレルノのバルトロメウスの注解、サレルノのマウルスの注解(13世紀))、この論考はこれらを詳細に読み解いて、もとのテオフィロスとの違いや注解同士の傾向の違いを、文献学的な視点も踏まえつつ考察していく。
興味深いのは、たとえば尿の色の違いについての記述。すでにテオフィロスが、健常者の尿を「基準」として設定した上で、様々なスペクトルを考察しようとしているのだけれど、その基準選定はヒポクラテスに準拠していて、いまだ文献指向。それに対してシャルトルの注解者は、より観察や実践に即した形でその「基準」を定義し直しているという。さらに「なぜそうなのか」という考察にも多くの文字を費やしている。これがディグビーの注釈者になると、むしろそうした理論よりは臨床面での情報に重きを置いていて、対象とする読者層も、当時実際に検尿に携わっていた医者などだったのではないかと推測されるのだという。翻って、シャルトルのほうは、生理学や解剖学の実験的な補佐として検尿を位置づけているのではないか、と(読者はむしろ医学生とか?)。このあたり、具体的なテキストの抜粋も注でふんだんに取り上げられていて興味深い。