唐突ながら改めて思ったこと。アフロディシアスのアレクサンドロスはやっぱり面白い……というか、そのアレクサンドロスの注解テキストを解釈する研究も(が?)また面白い(笑)。アレクサンドロス自身がアリストテレスのギリシア人注釈家なわけだけれど、その読解そのものがさらに現代の研究者の解釈を呼び寄せている風で、なにやら二重三重に重ね塗りされている感じ。注釈が、もとのテキストをなんらかの形でこねくり回してみせる様が、なにやらとても興味深い気がする。以前にも、魂と身体、形相と質料の不可分性のようなことをアレクサンドロスが強調していて、しかもそれが区別されるのはあくまで認識の賜物であるといった、まるで唯名論の先駆けであるかのような議論をアレクサンドロスが展開している、みたいな話があった。で、今度は自然学絡みのアレクサンドロスの立場について、フランスの研究者マルヴァン・ラシッドがいろいろとまとめている。見ているのは『アフロディシアスのアレクサンドロス:アリストテレス『自然学』への失われた注解(四巻から八巻)−−ビザンツの注釈集』(Marwan Rashed, Alexandre d’Aphrodise, Commentaire perdu à la Physique d’Aristote: Livres Iv-viii, De Gruyter, 2011)の巻頭論文のさわり。
『自然学』の四巻というと、場所、真空、時間などが扱われている巻。で、たとえば場所論がらみでは、四巻三章についてのアレクサンドロスの独創的な(?)解釈が紹介されている。アリストテレスの本文でのこの箇所は、素直に読むなら、モノがそのもののうちに「内在」することが不可能であるということを論証し、「内在」はあくまで他のモノのうちで可能であるという話の流れになっているのだけれど(これはまあ常識的だ)、著者によるとアレクサンドロスはどうやら、モノは「偶有的に」そのもののうちに内在することはできないとアリストテレスが付言していることをもとに、当初の対立項は偶有的か本質的かであると見て、「他のモノのうちに」在るという選択肢を第三の道として取り出し、モノは「他のうちにある」なら、そのもののうちに内在できるという結論を導くのだという。わーお。なにやらややこしいが、身体の中の内臓が特定の場所に存在することを著者は例として挙げている。要はこういうことらしい。個々の物体が場所に存在するということを、アリストテレス思想では連続性と隣接性の区別で説明しようとし、モノが場所に在るということは、存在論的な密度の高いモノが、隣接する存在論的な密度の粗い場所においてみずから運動するということだと述べるのだが、そうすると身体の中の内臓のように「内在」するモノの場合、説明に詰まってしまう。アレクサンドロスはなんとかそれを解決し(ちょっと強引に解釈をこねくりまわして?)、ライバル視していたストア派に対するアリストテレス思想の優位性を高めようとしたのだ、と……。