『迷える者への道案内』など、神学的・哲学的議論がともすれば目につくマイモニデスだが、実は医者としても活躍している。で、そのマイモニデスの医学書について取り上げた小論というか小アーティクル(一種の紹介文かな)を読む。フレッド・ロスナー「中世の卓越した医師、モーゼス・マイモニデスの生涯」(Fred Rosner, The Life of Moses Maimonides, a Prominent Medieval Physician, Einstein Quarterly Journal of Biology and Medicine, Vol.19, 2002)というもの。マイモニデスも相当波乱に満ちた生涯を送っている。迫害を逃れてフォスタット(カイロ)に渡ったところで父親や兄弟を失い、そこで生計を立てるために医者を稼業して始める。その後サラディンが十字軍との戦争で留守にしていたヴィジエ・アル・ファディルの宮廷医として指名され、やがてその名はエジプト内外に広く知られるようになり、サラディン亡き後もその息子に仕えた。医学教育をどこで受けたかなどはほとんどわかっていないというものの、著作にはヒポクラテス、ガレノス、アリストテレス、ラーゼス、アル・ファラービー、イブン・ズフル(12世紀のセビリャの医者)などが頻繁に引用されているという。
「迷路のような巡礼路」(Tessa Morrison, The Labyrinthine Path of Pilgrimage, Peregrinations: International Society for the Study of Pilgrimage Art, Vol.1:3, 2003)という短い論考を読む。シャルトルの大聖堂の床に巨大な迷路が描かれているというのは結構有名な話だけれど、ほかにもサン・ミケーレ・マッジョーレ、サン・ヴィターレ、ラヴェンナなどのゴシック聖堂にもあるのだそうだ。同論考はそうした迷路についての考察しているのだけれど、なにやら意外性に満ちていて、個人的には楽しく読めた(笑)。一般に巡礼の道を象徴するとされてきたそれらの迷路だけれど、そうした迷路の幾何学的な模様(クレタ風ではない)が描かれた最古の事例は、10世紀の計算手引き書なのだそうで、復活祭の日にちの計算を解説する箇所に挿入されていたりするのだとか。その200年くらいに後になって、教会の床に描かれることになる。ただ、それが僧侶の歩きながらの瞑想に用いられたという事例は18、19世紀のもので、それ以前にそうした修行が行われていた確証はないのだという。
思うところあって、サラ・L・アッケルマン「中世の対話論理」(Sara L. Uckelman, Interactive Logic in the Middle Ages, published online, 2011)という論文を見てみた。現代の論理学の一つの潮流として、静的・理論的な論理学から、より動的な、現実世界の状況に応用するための体系へのシフトというのがあるそうなのだが、そうしたゲーム的な対話論理学が盛んに取り上げられていたのが実は中世後期、13世紀半ばから14世紀半ばだったという話。この論文は、そうした中世の対話形式の代表例として、「オブリガティオ」(義務づけ、拘束)による議論というものを紹介し、まとめている。オブリガティオでは、対立者と応答者を要し、それらが順番に対話を構成していく。まず対立者がなんらかの命題を出し、それに対して応答者は予め決められたルールにもとづき「同意」「拒絶」「疑義」などを示すのだという。いわばディベート形式の先駆のようなもの(なのかしら)。で、その形式やルールについての研究が中世では広く散見されるのだそうで、たとえばソフィスマタ(謬論)などにも、オブリガティオ型の推論が多々見られるという。
またしても面白い論考だ。「『プラトン主義者はアリストテレス主義者より偉大なり』:12世紀から17世紀までの、『哲学の慰め』におけるボエティウスのプラトン主義解釈」(Lodi Nauta, “Magis sit Platonicus quam Aristotelicus”: Interpretations of Boethius’s Platonism in the Consolatio Philosophiae From the Twelfth to the Seventeenth Century, in The Platonic tradition in the Middle Ages: a doxographic approach, Walter De Gruyter, 2002)(PDFはこちら)は、ボエティウスの同著作についての注釈小史をまとめたもの。ボエティウスはキリスト教の伝統において重要な人物とされるものの、その最後の著作である『哲学の慰め』においては、キリスト教の教義に触れていないことと、身体に入る前の魂の存在がたびたび暗示されることにより、後世の注釈者たちを大いに悩ませることになる。ある人々は、ボエティウスが示すプラトン主義がキリスト教の教義に沿うものであることを、プラトンの言葉の意味解釈を深めることで示そうとし、また別のある人々は、そうしたプラトン主義とキリスト教の摺り合わせを拒絶しようとした。さらにほかにも、ボエティウスのプラトン主義への忠誠を低めようとする論者もいたり、文献学的な注釈だけに留めようとする動きもあったり、また17世紀ごろにはプラトン主義をまるごと真摯に受け止めようという向きもあったという。