再び論集『物体と空間』から。今度は短い論考二つ。この二つはある意味で連動している感じだ(編者二人それぞれによる論考だし)。一つはヴェスコヴィーニ「フライベルクのディートリヒ「光学論」による対象概念」(Graziella Federici Vescovini, La Nozione di Oggetto secondo la Perspectiva di Teodorico di Freiberg, pp.81-89)。ディートリヒは13世紀初めごろのドミニコ会の神学者だが、虹の研究などでも有名だ。この論考では、その光学思想のエッセンスを対象概念にからめて簡単にまとめている。ディートリヒの光学論は基本的にはアルハーゼン(イブン・アル・ハイサム)に倣い、物体による光や色の反射は幾何学の法則にもとづいているとされる。ディートリヒは感覚が「それ自体」として受け止めた外的な事象、つまりは感覚(もしくは知性)による認識作用の結果を「対象」(obiectus)と称しているのだという。従来の考え方からすれば、色などは物体がもつ属性だとされるのだけれど、それもまた他から区別される(それ自体として)という意味では、視覚にとっての対象ということになる。で、この背景には、「存在論的には偶有とされるそうした属性にも実体的な(実体へと向かう)性向がある」というディートリヒの独特な形而上学的スタンスがあるのだという。いずれにしても、対象というものが主体の側からの感覚や知性の作用によって導かれるというあたりが、先日見たダイイの対象の定義を先取りしている印象だ。
で、ダイイと同時代のビアジオ・ペラカーニ・ダ・パルマになると、その対象概念はもっとラディカルなものになっている(という気がする)。二つめの論考、リニャーニ「ビアジオ・ペラカーニ・ダ・パルマの思想における視覚対象の概念」(Orsola Rignani, Il Concetto di Oggetto visivo nel Pensiero di Biagio Pelacani da Parma, pp.91-98)によると、ビアジオの対象概念(視覚・光学的な)は経験的な与件として扱われ、光学的・幾何学的な法則にもとづき、また感覚を通じた心理的・認識的な操作(作用)にもとづいているとされる。とりわけこの後者の操作概念が強調されているようで、いわばアルハーゼンとオッカムの流れが合流した形なのだとか。あるいはまた、外的な機能と内的な機能の協働というふうに取られることもできる。で、これもまた、知性の知覚的・合理的な法則こそが外的事象に秩序を与えるのだという唯名論的(それも結構ラディカルな?)世界観に裏打ちされているのだという。ビアジオは理性の領域を大いに評価し、後のパドヴァのアリストテレス主義にも影響を与えているらしく(?)、また一方で魂の可滅性とか星辰の知性への影響などを肯定してもいたといい、なにやら初期近代への架橋という意味でも興味深い人物像のよう(そのあたりのまとめがこちらに(www.filosofico.net))。ダイイについてもそうだが、こちらについても個人的にもうちょっと調べてみたい。
シスメル社のミクロログス・ライブラリーのシリーズから、ヴェスコヴィーニ&リニャーニ編『物体と空間:13-14世紀からポストデカルト時代までの、物体・形相・モノの現象学』(Oggetto e spazio. Fenomenologia dell’oggetto, forma e cosa dai secoli XIII-XIV ai post-cartesiani, G.F.Vescovini e O. Rignani, Sismel-Edizioni del Galluzzo, 2008)を読み始める。で、最初に目にとまったのが、ピエール・ダイイ(14世紀後半から15世紀初頭のフランスの神学者)をめぐるジョエル・ビアールの論考(「ピエール・ダイイの認識理論における対象の位置づけ」)。中世の認識論の伝統は長いものの、「対象」という語が多用されるようになるのが14世紀後半あたりらしく、そうした著者の一人にピエール・ダイイがいるのだという。モノ(res)ではなく、対象(obiectus)にはどういう意味が込められていたのか。著者によると、それはまず感覚についての議論に現れ、潜在性や操作(感覚作用)との関連で見た場合の事物を言うのだそうだ。そうした使い方はジャン・ビュリダンやニコル・オレームにも見られるというのだけれど、ダイイはこれをさらに進め、意志や知性についても「対象」という言葉を使っているのだとか。ダイイはトマス以来の知的スペキエス(外部世界のモノを媒介する心的な像)の考え方を部分的に認めつつも、一方でオッカムの「認識とは外部のモノそのものの認識である」という考え方にもどっぷり浸かっていて、スペキエスを介する認識と、モノそのものの直接的認識とを分けて考えているのだという。で、その両方が認識の(知的理解の)対象になりうるのだ、と……。これはビュリダンなどにはない議論なのだそうな。ま、なにやら微妙な話ではあるけれど、このスペキエスを介する認識について、ダイイは鏡に映った像を例に説明を加えているという。
オッカムの唯名論の弱点について論じたピーター・キングの論考「オッカムの唯名論の失敗」(Peter King, The Failure of Ockham’s Nominalism, 1997)(PDFはこちら)と、それを批判的に再検討したギウラ・クリマ「ピーター・キング『オッカムの唯名論の失敗』へのコメント」(Gyula Klima, Comments on Peter King: “THE FAILURE OF OCKHAM’S NOMINALISM”)をざっと見てみた。メルマガのほうでも取り上げるけれど、両論考ともども、オッカムの唯名論の問題点は個物と一般概念とが取り結ぶ関係を説明できていない点にあるとしている。とりわけオッカムの場合にそうした説明を妨げるのが、個物と概念とが類似の関係にあるという議論らしい。本来これは、二つの個物を比較するときに、その比較の拠り所となる第三の項を設定し、そこに「〜性」といった抽象(普遍)概念を入れるという実在論的な説明を排するため、オッカムが示した議論だった。二つの個物は本性的に(つまりもとから)類似の関係をもつか、さもなくばもたないかのいずれかで、たとえばソクラテスとプラトンを白さで比較する場合に、「白さ」という抽象語を立てる必要はなくて、ソクラテスがもつ白さと、プラトンがもつ白さだけで事足りる、両者の類似の関係さえあれば第三項は必要ない、という話なのだけれど、複数の(というか潜在的に同種のすべての)個物と一般概念とがどう結びつくのかを考える場合、この類似の関係は途端に足枷になってしまうようだ。たとえばある一匹のオス猫を見て「動物」「オス」という概念を抱く場合、類似によってそれら個体とそうした概念が成立するには、「動物」や「オス」という範疇があらかじめなければならないのではないかということになる。範疇(概念)を先取りせずに、その成立をどう説明づけるのか。あるいは犬とかほかの生き物を見る場合に、心的操作だけでどうやってそうした「動物」や「オス」の概念に結びつけるのか。類似性の関係だけでは、心的な操作だけでそうした概念が成立するのを説明づけられないのではないか……。
クリマの論考の最後にちらっと示されているけれど、オッカムの議論におけるこうした弱点を突く批判はすでに同時代からあったようで、一つ挙げられているのは『オッカムに対する実在論の論理』(Logica realis contra Ockham)というもの。これは偽リチャード・キャンプサルの文書とされているものの実際の著者は不明で、ときにウォルター・チャットンに帰されたりもするのだそうだ。さらに重要そうなのが、16世紀のドミニコ会士ドミンゴ・デ・ソトだ。一般に経済理論や国際法の議論で知られている人物とのこと。トマスの『神学大全』の注釈も書いているそうな。本人は実在論の側に立っているようだが、その立ち位置はビュリダンなどの唯名論とも重なる微妙なものらしい(?)。実在論と唯名論の根本的な不一致は存在論にあるのではなく、意味論にあると看破しているといい、「存在論的には中庸な、意味論的実在論」を唱えるのだという。うーむこれだけではなにやらよくわからないけれど、でもとても面白そうではないか!クリマはこれを高く評価しているようで、オッカムの行き詰まりを打破する鍵の可能性すら見出している。これはぜひテキストを見てみたい。