マクダウェル

オッカムの認識論のはるか延長線上には当然ながら現代の哲学(あるいは認知科学も)があるわけなのだけれど、そのあたりも押さえておきたいと思って、先日は最近出たピリシンの邦訳書を見てみた。で、続いて見ているのが、ジョン・マクダウェル『心と世界』(神崎繁ほか訳、勁草書房)。まだ全体の四分の一程度、前半の講義部分のさらに前半まででしかないけれど、すでにして強烈に面白い。こちらも捉えようとしているのは同じような問題圏なのだけれど、当たり前だがディスコースの運びなどはまるで違う。けれども基本的な部分についてはある種の共鳴感があって、いわば相互に響き合いながらも別々の道を辿っている、あるいは同じ山のふもとにあって別の角度からの眺めを記述しているというか。そのあたりの共鳴感・相違点がなかなかに刺激的だったりもする。

ここでもまた、オッカムがブラックボックスを敷いた「外的事象と内的概念の成立」という問題が問われているわけなのだけれど、マクダウェルの主張は要するに、人は感覚を通じて外部世界を経験するが、それから遮断されて内的な世界(合理的判断の世界)があるのではなく、その感覚を通じての外部世界の受動的な受容にはすでにして自発的・合理的な判断が取り込まれているし、内的な世界はすでにして外部との確固たる境界などもっていはいないのだ、というもの。ブラックボックスをミニマルな部分(「経験」「概念」といったもの自体のプロセス)にまで縮減させようとしているように思われるけれど、全体の議論はあくまでそうした見方への異論に対する反論という形で進められている(デイヴィドソンやウィトゲンシュタイン、カントなどが取り上げられていく)ため、どこまでブラックボックスとしているのかは微妙に見えにくい構成になっている……(ま、オッカムなどにもそういうところがあるけれど)。で、先のピリシンとの絡みでいえば、ピリシンが非概念的な指標づけ機能として示している、外部世界との「最初の」やりとりに、マクダウェルはあえて悟性の側からの干渉を見、それが概念的内容を伴っていると断じている。第三講義でのガレス・エヴァンズ(知覚が非概念的内容をもつと考える)への批判からすると、マクダウェルは自発性が及ぶところ(たとえそれが指標付けの意志でしかないとしても)にはすべからく合理的判断が、そしてその概念的内容がなければならないと考えているようだ。ローレベルプログラミングでの割り込みの事例で再び譬えるなら、それが高次の言語からは見えない操作であることを見て取るか、それともあくまで信号的操作・言語化可能な操作と見て取るかという違い……ということなのかしら???