ディディ=ユベルマン『イメージの前で』(江澤健一郞訳、法政大学出版局)を読み始めたところ。まだ第一章だけなのだけれど(苦笑)、すでにして滅法刺激的だ。かつて『フラ・アンジェリコ:神秘神学と絵画表現』(寺田光徳ほか訳、平凡社)で、ドミニコ会の神学的伝統が絵画表現と一体となり錯綜する様を描き出した著者は、こちらでもまずは同じアンジェリコの絵画でもって、「美術史」という一種の牙城に裂け目を刻みつけていこうとする(おお〜)。アンジェリコの絵画に遍在するという「白」を、著者は絵画を基礎づけている欠如、意味の全体を可能にする根源的な非-知、潜在的ないっさいのものを現前化との二重写しにする空隙、形象化をもたらすための可視性の純化、などと捉えている(それぞれ表現はちょっと違うけど)。なにやらその白は、現象学的な根源性の役割を与えられているかのようだ。で、この空隙はもちろん著者による哲学的な方法(現象学的)によってそのようなものとして見出され、措定されているわけだけれど、ではその同じ方法でもって、「見ているものを知っていると考えている」学知、つまり今の場合なら図像学や美術史などだけれど、そうした学知にアプローチしたらどうなるか、というのがこの第一章の主眼(らしい)。そうした学知の分厚い既知の体系を穿つ特異点は、どうやら「過去」をどう見据えるかという点にあるらしい。
歴史家は過去を喪失の対象として見据えつつ、一方でそれを発見の対象、表象の対象として見出すという、ある種の宙吊り状態に置かれる。問題はそのこと自体がなんらかの強制によって見えなくなってしまうこと。歴史家にとっての過去は本来思考不可能なものであり、自身が抱く形象、つまり「想起する現在」の操作を通じてしか存在できない。しかもそれはなんらかの強制力をもってしまう。過去を過去の範疇だけで解釈しようという企て(歴史学ではよく言われることだけれど)は、一見オーセンティックに見えて、近似的な過去の範疇に逆に強制されてしまうという面がある。近似的な過去の範疇はときに、時間的にはわずかなずれにすぎなくとも、意味内容においてはまったく的を外してしまう場合があるのだ、と(著者は、15世紀のクリストフォロ・ランディーノが示し、はるか後にバクサンドールが用いた解釈の範疇が、ランティーノからわずか30年前のフラ・アンジェリコには通用しないことを例として挙げている)。史学がもちいるこうした「過去の現前化」の陥穽は、逆説的にその現前化の「思考されないもの」を徴候として指し示す、というわけだけれど、さらに芸術を扱う学知においては、そうした現前化によって芸術は過去のもの(終わったもの)と規定され、見えるものに属すると括られ、そうして頑強な牙城と化していく……。早い話が、なぜ美術史(に限らないけど(笑))の言説はそんなに偉そうな物言いになるのかという問題に、ディディ=ユベルマンはそういうからくりを説いてみせる……。