オッカムを継ぐ者(大物)たち

うーむと思わず唸ってしまう論考を読んだ。刊行が続いている講談社選書メチエの『西洋哲学史』Ⅳ巻(2012)所収の乗立雄輝「オッカムからヒュームへ」がそれ。従来のイギリス経験論vs大陸合理論とは違う、ブリティッシュ・ノミナリズムvsアメリカン・リアリズムという対立構図を提示して、オッカム、ロック、バークリ、ヒュームの流れを唯名論をキーとして整理し直すという、とても刺激的な試みを展開する(対立するアメリカ勢はパース、ジェイムズ、ホワイトヘッドなど……)。見取り図としてとても面白いっすね、これ。中身からちょっとメモしておこう。ヒュームの「習慣」(ハビトゥス)を遡ってとりあえず行き着くのはオッカムのハビトゥス論。オッカムは可知的形象を認めない代わりに、それが担うとされていた心理的な機能(想起など)を説明するため「習慣」(ハビトゥス)を導き入れる。これはヒュームが、因果関係の必然的結合を否定するために「習慣」を持ち込むのとパラレルだというわけだ。著者は稲垣良典『習慣の哲学』を引いて、オッカムが人間活動の全体を習慣概念でもって説明しようとしていたとし、それが、パースが評価するトマスの習慣概念(自然本性に関わる、なにか超越的なものとしての習慣)とはまったく別物であったことに触れている。

話はさらに「関係」概念に及ぶ。それを実在論的に捉えるか、それとも唯名論的に精神活動の所作と見なすかという対立点があるわけだけれど、後者の代表格としてロックが挙げられ、これまたオッカムの議論へと遡及していく。これに関連して、オッカムによるカテゴリー縮減(アリストテレスの10の範疇を、<実体>と<性質>のみへと切り詰める)の話に進んでいく。削除された範疇はみな言語の表象能力ゆえに導かれた仮象的なものでしかないというわけだが、そもそもオッカムの場合には、概念というのは心が現実に行っている思考活動そのものだとされる。で、そのあたりもまたヒュームやバークリなどに継承されているのだという。

興味深いのは最後のほうで出てくるビュリダンの話。ロックはオッカムの唯名論を様々な形で継承しているというのだが、「観念」に至っては可知的形象を復活させていると見ることもできるといい(実際にトマス・リードがそう批判しているのだとか)、なぜそんなことになるのかという話において、ミッシングリンクとしてのビュリダンが登場する。オッカム以上の唯名論者とも言われるビュリダンは、カテゴリーを<実体>のみに縮減しようとし(これは神学的に問題になることから、失敗しているということだが)、<性質>までも<実体>に含めようとして新たな実体概念を打ち立てようとし、その途上で可知的形象(および能動知性)を復活させてしまうのだという。どうやらロックにも同じような動きが見られるらしいのだが、このあたり、もうちょっと詳しいところに鼻を突っ込んでみたくなる(笑)。

そういえば、前にマクダウェル関連で出てきた「受動の中の最低限の能動」に関係して、ちょっと面白い記述があった。ロックは感覚の受動性においてさえ観念の選り分けをするためには何らかの作用が必要だとしているというものの、その働きを能動的な精神の能力にではなく、身体レベルの感覚の働きに求めているのだという(と、種本のスプルイトが述べているらしい)。で、トマス・リード、ひいてはパースなどが、知覚にすでに判断が含まれていると主張しているのだそうな。これは後で確認しよう(笑)。