知的スペキエス:クザーヌスとか

都合により個人的に長らくおあずけ状態だったリーン・スプルイトの『知的スペキエス:知覚から知識へ』の第二巻(Leen Spruit, Species Intelligibilis: From Perception to Knowledge : II., Brill, 1995)をやっと読み始める。章立ては一巻に続いてなので6章からで、まずこの章が「フィレンツェからパドヴァへ」になっている。さしずめ15世紀後半の論者めぐりということで、クザーヌス、ピコ・デラ・ミランドラ、フィチーノ、ジャック・ルフェーヴル・デタープル、シャルル・ド・ボヴェル、フラカストロと続き、さらにパドヴァからはニコレット・ヴェルニア、アレッサンドロ・アキリーニ、ティベリオ・バチリエリ、クリストフォロ・マルチェッロ、そしてアゴスティノ・ニフォへと、総覧のごとくページが展開していく。なんと華麗な……とため息がでる感じ(笑)。こうしてスペキエス(可知的形象)がいかに意味を縮減され、むしろ力能としての知性の働きに「呑み込まれて」いくかが示される。

最近の個人的な関心でもある「受動の中の能動性」みたいな話からすると、どの論者も興味深いのだけれど、とりわけクザーヌスが意外に重要そうな気がする。その流れの嚆矢のような扱いのクザーヌスは、基本的に感覚の励起が知識の生成の基本部分をなすと考えている一方で、心がまったく受動的にのみ感覚の刺激を受け取るのではなく、知識の獲得には判断能力が不可欠だとも考えている。で、感覚の刺激という意味でのスペキエスは認めているのだという(知的スペキエスについての言及はないのだとか)。「形相的スペキエス」(species formales)が心の中にある、という言い方も出てくるようだけれど、ただその場合でもプラトン主義的な実体的像があるというのではなく、力点は心がそうした像を形成できる心の力能に置かれていることをスプルイトは強調したりしている。ちょっとこのあたりは深く潜ってみたい話だ。また、今オッカムとかをかじっているせいもあって、オッカム主義者として知られるアレッサンドロ・アキリーニあたりもとても気になるところだ。