熱烈な信者でもないかぎり、歴史的人物としてのイエス・キリストについては、海の上を歩いたという話はいわゆる「眉唾」で、読み書きができたという話はおそらく本当なのだろうと考えるのが、たいていの現代人だろうと思う(たぶんね)。ところが、ここで「なぜイエスは海上を歩けたのに、読み書きはできなかったか」という挑発的(?)なタイトルを掲げてこれに挑むかのような論文が目に付いた。南アフリカ大学のP. F. クラファート&J. J. ボサによる論文だ(P. F. Craffert and P. J. J. Botha, Why Jesus could walk on the sea but he could not read and write, Neotestamenica, vol. 39, 2005)。彼らの主張は要するに、イエスが実際に海の上を歩いたかどうかは、これまで様々な説が出されているものの、事実関係に限定して考える限り証拠となるものがなく確定的なことは言えないが、それを文化的事象として捉えるならば、まったく違った議論ができる、ということに尽きる(かな)。その事象を<目撃>した弟子たちの理解(すなわち彼らの意識変容状態の記述)や、その理解を支えていた文化的背景(海は基本的に霊的な力を秘めた存在で、神や英雄がそれを制御するという伝統的な物語が共有されていた云々)から捉えることで、海の上を歩くという現代的常識からすれば超常的な事象が、当時の文化においては至極もっともらしい事象だったとして扱われうる、というわけだ。でもこれって歴史記述としてはどうなの、という疑問が当然湧く(笑)。
修道院文化における科学的知見の発展に言及するような場合、一般に12世紀以降が大きく取り上げられ、それ以前は今なおときにダークエイジ的な扱いになってしまうことが散見されるけれど、8世紀くらいにすでに優れた科学的知見の拡がりがあったという話を、尊者ベーダが行っていた算術計算を例として、リアム・ベニソン「中世初期の科学:ベーダの事例」(Liam Benison, Early medieval science: the evidence of Bede, Endeavour, vol.24, 2000)がまとめている。ベーダの著作はこれまた多岐に及ぶというが、ここで取り上げられているのは725年頃に書かれた『時間の計算について(De temporum ratione)』という書。当時の最も重要な計算問題は移動祝日であるイースターの日にちの確定だった。で、ベーダがいた北イングランドのノーサンブリアでは、84年周期のケルト方式、19年周期のヴィクトリウス方式とディオニュシオス方式の三つが乱立していて、ベーダはディオニュシウス方式を擁護していたという。ベーダはアウグスティヌスが唱える文献比較を方法論として、キリスト教関連以外の学術をも精力的に研究していたらしい。けれどもこの論考の中で最も興味深いトピックは、ベーダの上の書が、潮汐と月の関係について初めて言及していたという点だ。月の出と入りが毎日48分づつずれていることを指摘し(同書でベーダは閏年の説明も行っている)、潮汐もほぼ同じずれをもっていることを明かしているという(さらに、場所によって満潮・干潮時間が少しずつずれていることも指摘している)。ベーダがこれをどのようにして見出したかは定かではないというが、実測した可能性もあるとしつつ、その背景には英国に渡ったゲルマン民族が有していた広範な伝統的知識があったのではないかと同論考は考えている。異教的な知に対して開かれたスタンスが垣間見られる、ということか……。
久々に文献学的な論考を読んだのだけれど、これが滅法面白かった(笑)。リチャード・シャープ「著者としてのアンセルムス:11世紀後半における出版」(Richard Sharpe, Anselm as Author: Publishing in the Late Eleventh Century, Journal of Medieval Latin, vol.19, 2009)というもの。中世の神学者らが著書をどのように作り、どのように流通させていたのかは、具体像とか細かい点になると案外わかっていなかったりするらしいのだけれど、アンセルムスは例外的に書簡の形で著作についての言及が多々あり、本人がどのように出版(publishing)を目論んでいたのかが比較的よく追える数少ない例の一つなのだという。著作の成立年代なども含めてそうした動きを再構成しようというのがこの論考。当時は一般にまず薄い小冊子的な文献(20葉とかそのぐらいの)が出回りやすかったようで、アンセルムスも初期はそういう短い説教集などを匿名で出していた。最初に名前入りで出したのは『モノロギオン』で、これはタイトルを付す前に先達のランフランクスに出版許可を請うた上で、序文を付して名前を明かした。「出版」の手順はというと、現代の研究者が抜刷りを送るのとあまり変わらない。著作が完成するといくつかの写本を作り、それを知己などに送付する。やがて評判が立つと写本を請われるようにもなり、そちらにも送付する。こうしてかなりの量が流通に投入されていたらしい。徐々に著者として名が知られるようになると、そこから先は出版というよりも著者の手を離れた流布(dissemination)の段階になり、写本の受け取り手が独自に二次・三次的に写本を作り流通させていく。当然ながら筆写の誤りも混入してくるし、体裁その他が大きく変わってしまったりもする。
近代初期を中心に盛んになった魔女裁判。ちょうどこちらのブログ「オシテオサレテ」でも取り上げられていたのだけれど、魔術・魔術師の糾弾として始まったはずの教会の動きがいかにして「魔女」裁判になったのかはとても興味あるところ。というわけで、先に別方面で紹介されていた論考を読んでみた。マチュー・アレクサンダー・メビウス「魔術についての聖職者の理解と魔女のステレオタイプ」というもの(Mathew Alexander Moebius, Clerical Conceptions of Magic and the Stereotype of the Female Witch, Oshkosh Scholar, vol.6, 2011)で、魔術師のジェンダー化問題について様々な文献をプロットし、それがどう導かれたか描こうとする野心的な(?)一編。さっそく内容をまとめよう。もともと広義の魔術・妖術は古代から民衆の間に伝えられていたわけだけれど(良き霊が介在するとされていた)、当然ながらキリスト教はこれを全面的に批判した。その代表格がアウグスティヌスで、そうした魔術の一切はもとより悪魔的だと一蹴してみせた。これが長い伝統として受け継がれていき、たとえば10世紀初めごろに書かれた重要文献とされる『司教法令集(Canon Episicopi)』でもその路線が踏襲され、基本的に異教への信仰(女神ディアナの夜の行軍とか)全体が誤りとして糾弾されていく。
あまりにストレートなタイトルだったので思わず読んでしまった(笑)のが、ジャン=リュック・ソレール「なぜプラトンは書いたのか」(Jean-Luc Solère, Why Did Plato Write?, Orality, Literacy, and Colonialism in Antiquity, ed. Johnathan A. Draper, Society of Biblical Literature, 2004)という論考。『パイドロス』で文字の起源について触れ(エジプトのトート神)、それが人間の記憶を弱めるとしていたのに、なぜプラトンは敢えて著作を残したのか、そもそもアカデメイアの教義の核心部分は口頭でしか伝えられなかったというでないか……というかなり古くからの素朴な疑問に、論文著者はまずマルセル・デティエンヌの論を紹介しながら接近する。それによると、当時のギリシア世界では書の起源は二人の神話上の人物、つまりパラメデスとオルフェウスによって体現されていたという。前者は算術などの技法の考案者ともされ、トート神と同一に考えられていた。で、デティエンヌによると、トート神(=パラメデス)の文字の発明は算術・幾何学・天文学など他の技法に必要とされ、ゆえにそれらと一体のものとして正当化されるべきものであったにもかかわらず、それが生きた記憶に対立するものとして位置づけられたのは、タムス王に提示する際の仕方がまずかったからなのだそうだ。