ルルスの生涯

ちょっと時間が空いたので、ライムンドゥス・ルルスについて書かれた基本的な論文を覗いてみた。J.S.ブリジャー「ライムンドゥス・ルルス:中世の神学者・哲学者・ムスリムへの宣教師」(J.S. Bridger, Raymond Lull: Medieval Thelogian, Philosopher, and Missonary to Muslims, St Francis Magazine n.1. vol. V, 2009)というもの。一本で基本事項(ただしアルス・マグナなどの秘術的な側面にはまったく触れていない)を押さえられるという意味では、お得感のある論文だ(笑)。前半はルルスの生涯についてのまとめになっていて、後半は主にその神学的立場を、三位一体と受肉を中心に見ていくという趣向。なんといっても前半が、なにやら筆もノッている感じで(?)面白い。ルルスも小説とか映画とかにできそうなほどのドラマチックな生涯を送っている。放蕩生活から一変して修行生活に入るのがなんと32歳だそうで、それから9年間かけて諸学を学び、自身の宗教的転向を活かす形で北アフリカでの宣教に乗り出す。さらにアラビア語を学ぶために買い取った奴隷の自殺(その前にはルルスを殺しかける)が契機となって、アルス・マグナのもととなる技のビジョンを得るなんてエピソードも。宣教に赴いたチュニスでは、その教えが危険視されて投獄されたりと、いろいろ波乱に満ちている。論文はここから、何がそんなに危険視されていたのかという疑問に導かれて、後半の神学思想の検証(『異教徒と三賢者の書』の検討)へと入っていく。

後半の肝の部分はというと、ルルスの神学思想が哲学と神学とを分けず、理性こそが最も深い神秘の信仰を支える基盤をなしていると見なしていた点ということになりそうだ。だから相手の説得も理詰めの論駁が基本。三位一体も受肉の議論も、うまいところを突いて論を進めていく感じだ。でも、何が危険視されたかという当初の疑問への答えはあまりはっきりとはしていない印象だ。理詰めの論究の仕方が脅威と映ったということ……なのかしら?

wikipedia (en)より、ルルスの生涯を描いた14世紀の挿絵。

医学と錬金術 2

引き続き『中世の錬金術と医学』からメモ。ミケラ・ペレイラ「偽ルルス『遺言』における、完全なる医師としての錬金術師」(Michela Pereira, L’Alchimista come medico perfetto nel Testamentum Pseudolulliano, pp.77-108)はなかなか読み応えがある一編。いろいろなディテールが興味深いのだけれど、とりあえず大枠だけ見れば次のような話がメイン。14世紀前半ごろに成立したとされる『遺言』(Testamentum)(かつてはルルスに帰されていた)は、偽ゲーベル(実はタラントのパウルス)の『完徳大全』以来の技術・操作的な体系化を引き継いでいるものの、その錬金術観は医学との関係において大きな変化を遂げているのだという。そもそも西欧の中世盛期において錬金術の医学との関係性が大きく動いた契機の一つは、やはりロジャー・ベーコンによる長寿の探求だった。ベーコンが長寿のために求めたという錬金術的な霊薬(エリクシール)は『遺言』でも人体に利く薬として理解されていて、その意味では、錬金術と医学が取り結ぶ関係はアナロジーの域にもはやとどまってはいなかった。とはいえ有機体の錬金術と金属の錬金術の区別は保持されていて(この点は、同書所収のA.P.バリャーニ「ロジャー・ベーコンと長寿の錬金術、文献的考察」に詳しい)、錬金術の概念そのものが変容していたわけではなかった。しかしながら『遺言』で示される錬金術観では、金属と有機体の区別はあいまいになり、もはや金属を完成(治癒)へと導くという狭義の錬金術の枠組みや、錬金術は自然と協働するものといったメタファーにとどまることなく、ある種の完全な医学を標榜するようになっていく……。

14世紀のそうした変化には、たとえば蒸留といった錬金術的手法が、13世紀後半ごろ医師たち(外科医を含む)の間にまで拡がった背景があるらしい(これについては、やはり同書所収のマイケル・R・マクヴォー「テオドリクス・ボルゴニーニ『外科医術』における錬金術」という論考が興味深い)。彼らのそうした手法の援用に対して、錬金術側からはある種の批判が起こり、錬金術師たちは自分らの技こそがより優れた効能の薬を生み出せるのだとの自負を抱くようになった。そうした文脈の中で、たとえば例のエリクシールなどもその意味づけが変わっていき、ときには「飲用の金(aurum potabilis)」「命の水(aqua vitae)」「根源的湿度(humidum radicalis)」などの諸概念と結びつくようになり、当時の自然学的な発生論も絡む大きなテーマ系を成すようになる。なるほど、ここにもまた実用的技術から脱して理論的知に向かおうとする錬金術師らの動き(というか確執ですな、むしろ)が垣間見られるということかしら。

wikipedia (en)から、ルルスの錬金術書(16世紀初頭のものらしい)からの挿絵

医学と錬金術 1

論集『中世の錬金術と医学』(Alchimia e medicina nel Medioevo, a cura di C. Crisciani et A.P.Bagliani, Sismel/Edizioni del Galluzzo, 2003)を読み始める。西欧中世あたりには錬金術も医学も共通の知的基盤をもっていて、ある意味両者は地続きの関係にあったとされるけれど、とはいえ学問分類上、両者は明暗を分けることにもなった。このあたりの諸事情が、様々な論考を通じて浮かび上がってくる……のかな、などと期待しているところ(笑)。これも少しメモを取りながら見ていきたい。というわけで、まずは(錬金術の伝播の経路に合わせて?)ギリシア文化圏についての論考から。ベルニーチェ・カヴァッラ「ビザンツ文献における錬金術と医学」(Bernice Cavarra, Alchimia e medicina nei testi Bizantini)は、まさに古代末期からの哲学・医学・錬金術の分類をめぐる論考。ビザンツ世界では古代からの区別を受け継ぎ、理論の学(哲学)に対して実践の学(医学)は一段下に位置づけられていたわけだけれど、錬金術をその中間に「実践的哲学」として位置づけようとした人々がいた。たとえばパノポリスのゾシモス(4世紀ごろ)とか、アレクサンドリアのステファノス(6世紀から7世紀)など。はるか後世のプセロス(11世紀)ともなると、医学がむしろ理論知に位置づけられるようになり、錬金術はそこに部分的に収斂しつつ(神秘的な要素が減じ、物質的変容なども自然に属する現象として扱われる)も実践知として従属するといった微妙な関係になっていくらしいのだけれど、ステファノスあたりにあっては、人間と鉱物などがアナロジーで結びつけられ、医学と錬金術はともに「それぞれの治癒(つまりは完成)を目指す」点で同レベルの実践知と位置づけられていたという。うーむ、ステファノスもなかなか面白そうだ。

パオラ・カルージ「哲学者と水夫−−自然から見たイスラム錬金術と医学」(Paola Carusi, Il filosofo e il marinaio. Alchimia islamica e medicina alle prese con la natura)もある意味、上の論考を補佐する内容。もちろんこちらはイスラム世界での錬金術の位置づけなのだが、これが上のビザンツでの位置づけに呼応しているらしいことがわかる。論考は、医学が理論知であるとはいっても、個別事例の集成である点をもって純粋な理論知である哲学とは異なることを、アヴィセンナの文書をもとに示し、次いで錬金術が、医学とも哲学とも一定の共有関係をもちつつ、両者の中間に位置づけられる(金属に対して医師のように接し、哲学の理論をそこに応用しようとする)ことを詳述している。

磔刑の謎

夏の夜に(ホラーじゃないけれど)ちょっと血なまぐさい(?)話の小論を読んでみた(笑)。M.W.マスレン&P.D.ミッチェル「磔刑の死因に関する医学的諸理論」(M.W.Maslen & P.D. Mitchell, Medical theories on the cause of death in crucifixion, Journal of the Royal Society of Medicine, vol.99, 2006)というもの。磔刑もまた世界的に広く分布する処刑方法。ローマ時代に多用されていたという磔刑は、当然ながらキリストの磔刑が最も有名なわけだけれど、実際のところ、具体的にどういう風に罪人を磔にし、どういう死因で死にいたらしめていたのかは未だにわかっていないらしい。磔刑での死因についてはいろいろな説が唱えられているというが、どれも決定的な証拠がなく、同論文の著者たちはむしろケースバイケースで様々な死因があっただろうと考えているようだ。脱水症状、無理な姿勢による呼吸困難、血栓、失血のショックなどなど……。磔刑が実際にどんな形で行われていたかについても文献的な史料は乏しいようで、やはりメインは聖書ということになるらしい。ほかには、たとえばヨセフスやセネカなどにも簡素な記述があるようだ。考古学的史料としては、釘打ちされたローマ時代の踵骨がギヴァト・ハミヴタール近郊(イスラエル)の墓から出土しているという(1968年とのこと)。その例ではどうやら足を十字架の柱部分の側面に打ち付けているらしい(!)(この場合の想定図はこちら)従来、イエスの磔刑図像・彫像は伝統的に、足を柱部分の前面に打ち付ける風に描いてきたのだけれど、実はそういう形で磔にしていた証拠は見当たらないのだとか。

以前どこぞのテレビ番組で、手のひらにクギを打つのではずり落ちてしまうという説への反論として、ヒザと腰を曲げる形で安定させればずり落ちないという話を実際に人をたてた再現実験により検証していたように思うけれど、どうやらこれはザギビーという人の説らしい。仮説としては面白かったものの、これも足を柱の前面に打ち付けることを前提にしていて、この小論によれば根拠はないということになる。さらにザギビーの説はトリノの聖骸布にもとづくところが大きく、この聖骸布自体が1260年から1390年ごろにかけて作られた贋作だとあっては、もはやその仮説は論外とされるしかないのだとか……。再現実験も、本物の受刑者のようにかなりの長時間を磔にされたままにできるわけでもなく、いろいろ問題があるようだ。一方で上のギヴァト・ハミヴタールの史料などはなぜか無視されているのだという(ん?これはどういうことなのかしら。これまた偽物かもしれないからとか???)。で、論文の著者たちは一通りの批判を展開した後、こういうテーマでは、医学・考古学・歴史学などの学際的な研究チームによるアプローチが有効だろうと結んでいる。研究はまだまだこれから、というところなのか……。

wikipedia(en)より、ギヴァト・ハミヴタールの写真