エックハルトの「行動主義」

結構久々だが、エックハルトについての研究を読んでいるところ。まずはサミュエル・ボーディネット「エックハルトの精神の清貧論」(Samuel Baudinette, Meister Eckhart on Poverty of Spirit, 2013)。エックハルトがドイツ語の説教で用いる「清貧」についての考察なのだけれど、そこでの「清貧」とは神を直接識ることを意味し、トマス・アクィナスなどが霊的完徳に向けた第一歩として世俗的な所有の放棄を強調するのとは対照的に、「何も欲しがらない、何も知らない、何ももたない」ことを柱とした、まさしく無私の思想だということを説いている。エックハルトはそれを「内的な清貧」として取り上げているという。意志さえをも捨てるかのような清貧。一見これは一種の静寂主義に見えるのだが、エックハルトはなにも観想的生活のために諸々の営みを放棄せよと言っているのではないという。人はその内的な清貧を行動へと移しかえ、また活動を内的な清貧へと移しかえなくてはならないと説いているのだという。そこにこそ、内的な清貧状態の自由があるのだという。静寂主義が反転するかのような行動主義というのが、エックハルトの思想的特異点だというわけだ。

トマスとの比較・対照でエックハルトを見るというスタンスは、これまた読みかけの松田美佳『マイスター・エックハルトの生の教説』(行路社、2010)でも共有されているスタンスだ。そちらでも倫理の問題を扱った箇所で、静寂主義に見えるエックハルトの倫理に、実は具体的な行動の必要性が付随していることが示されている。そこから聖書のマルタとマリアの逸話についての話(これについてはかなり前のアーティクルで触れているが)についての解釈も出てくる。エックハルトは通例的な解釈とは逆に、立ち振る舞うマルタを高く評価する。トマスは活動的生(マルタ)よりも観想的生(マリア)を上位に置くというが、それでもなお必要時には活動的生が優先され、場合によっては観想的生を一時離れるほうが功績になる場合もあると留保を付けているという。エックハルトの議論がトマスと切り結ぶ関係というのは、このようになかなか微妙で味わいがある(気がする)。