トマス・アクィナスの"De Ente et essentia(存在するものと本質について)"を、羅伊対訳本("L'ente e l'essenza", trad. di Pasquale Porro, Bompiani, 2002)で読む。というか再読というか(メルマガのほうとの関連もあって)。若き日のトマスは、ケルンでアルベルトゥス・マグヌスの教えを受けた後にパリに赴任したわけだけれど(1252年)、この小品はちょうどそのころのもの。訳者の序文によると、出回っている写本の別タイトルとして「何性と本質について」「存在するものの何性について」「本質について」などがあったとされているけれど、実際のところ内容は「本質」(=何性)をめぐる形而上学的議論という感じだ。まずトマスは、「存在するもの」(ens)と言う場合に、大別するとそれが類を指す場合と文が示す意味を指す場合があるとして、前者の場合を「本質」と称するほうがよいと述べる。これをもとに、今度はその本質についての考察が繰り広げられる。複合的実体(つまり形相と質料から成る実体)の場合についてと、分離した実体(つまり質料を伴わない形相としての実体)の場合、そしてさらに神の本質の定義(存在との同一)、最後に偶有性の話ときて締めくくられる。全体を貫く基調は神学的な視座。このあたり、唯名論に対する実在論の基本線が実に良くまとまっているように見える。ちなみに稲垣良典『トマス・アクィナス』(講談社学術文庫)によると、邦訳は三種類あるとのこと。
今年も『中世思想研究』(49巻)が出ていたのでさっそく見てみた。このところ少し対象が広がってきていることは、近世から中世を振り返るというそのシンポジウムの論題などを見てもわかるところ。収録論文も、以前は圧倒的にトマスだった感じが、今号ではエックハルトやアルベルトゥス・マグヌスなどを扱った論文も収録されていたり。特に後者(小林剛「アルベルトゥス・マグヌスにおける表象力について」)では、表象力(ここでは感覚をベースとした判断のことを言っている)をめぐって、教父以来の伝統に立脚した過小評価と、アヴィセンナなどのアラビア思想による受容の温度差が指摘されていて、その点も個人的には興味深い。アルベルトゥスはアヴィセンナをベースとしているわけだけれども、先日触れたグンディサリヌスの話と関連づけるなら、1世紀にも満たないスパンの間に、教父的伝統(ボエティウスも含めて)からアラビア思想へとシフトしたことが改めて如実に感じられたりもする。この学会誌に載っているような様々な論考は、本当ならページ数の制約がある論文ではなく書籍として読みたいところ。あるいはページを増やしてもらいたい気もするのだけれど……著者たちもそれならもっと力作に出来るだろうに、と。でも出版事情はますますアレだからなあ……。
アルベルトゥス・マグヌス関連で言えば、またしても『境界の知』からだけれど(苦笑)、イェルク・ミュラーの「アルベルトゥス・マグヌスの倫理学へのアラビア知性論の影響」(Jörg Müller, 'Der Einfluß der arabischen Intellektspeklation auf die Ethik des Albertus Magnus')がとても面白く読めた。この著者は、アルベルトゥスが用いている「獲得知性(到達知性):intellectus adeptus」を考察するために、いったん知性論の系譜を遡り、アフロディシアスのアレクサンドロス、アル・キンディ、アル・ファラービー、アヴィセンナ、アヴェロエスのそれぞれの知性分類方法を端的にまとめた上で、改めてアルベルトゥスに戻り、その知性論の体系を年代的に3段階に分けて、獲得知性についての考え方の変遷を追い、その倫理学へのアル・ファラビーの影響に光を当てている。なんとも手堅く、それでいて実に「読ませる」アプローチ。欧文で20ページそこそこだけれど、ずっしりと存在感のある論考。このイェルク・ミュラーという人は、アルベルトゥスの倫理学に関する単著もあるらしく、それがまた高い評価を受けているようだ。ちょっと注目株かも。
エティエンヌ・ジルソンの代表作の一つ『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000)を部分的に読む。タイトル通り、存在と本質の概念をめぐる、古代ギリシアからハイデガーまでのいわば通史。とりあえず3章、4章と付録の1をざっと。アヴィセンナからドゥンス・スコトゥスへと伝えられ深化をとげる「本質の偶有としての存在」というテーゼあたりの話がとりわけ興味深い。付録の語彙に関する小論もあざやか。ギリシア語のτὸ ὄνを訳すにあたって提示された、ensやentiaはボエティウス以後に定着するというけれども、実はそれ以前に古くから語としては提案されていて(クィンティリアヌスがセルギウス・フラウィウス某という名を挙げているのだそうだ)、ただ普及はしなかったというわけだ。essentiaも同様で、これなどはセネカが使っているにもかかわらず、写本の筆写者たちが理解できずに修正してしまっているものなどがあるという。それが広まるのは、三位一体をめぐる論争によってだったというのがまた面白い。同じように、existentiaが中世盛期に用語として定着するのも、ローマのジルとガンのヘンリクスとの論争があればこそだったという。うーん、神学論争は思わぬところにそういった余波を生み出していたわけだ。
ペトルス・ヒスパヌスの『論理学綱領』(Pietro Ispano, "Trattato di logica", trad. Augusto Ponzio, Bompiani Testi a Fronte, 2004)をちらちらと読み始める。とりあえず5章目まで。ペトルス・ヒスパヌスは後に教皇ヨハネ21世となった人物。同書は13世紀に書かれて以来、論理学の教科書として使われていたもの。確かにかなり簡潔にして要領を得た記述が項目ごとにまとまっている。この記述の形式そのものがちょっと興味深い気もする。で、ポルピュリオスの『イサゴーゲー』に準拠するとされる、いわゆる「ポルピュリオスの樹」も、2章目の中程でとくになんの説明もなくポンと出てくる。そういえば、先の『中世と近世のあいだ』(知泉書館)所収の論文、山下正男「十四世紀の論理学」によると、このポルピュリオスの樹、項目の若干の変更はあっても、ほぼそのままの形で19世紀や20世紀初頭にいたっても、伝統論理学の入門書に引き継がれていたという。さらに、このポルピュリオスの樹が『定義のための道具」という側面と、「三段論法のための道具」という側面をもっていて、さらにアリストテレスの三段論法とは違って固有名詞まで扱っているというところが問題含みなのだという。そういえば同時代のルルスが用いる円も、同じく定義と三段論法のための道具だったっけ。これ、円環で表されているものの、基本的な発想はツリーだという印象がある。ルルスには「学問の樹」もあるし。なにかこの、中世盛期のツリーについて、その考古学みたいなものが改めて気になってきた……(笑)。
先に見たA.-M.ゴアションの本の、アヴィセンナのドゥンス・スコトゥスへの影響という話に触発されて、大御所エティエンヌ・ジルソンによるスコトゥス論『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス--その基本的立場への誘い』(E. Gilson, "Jean Duns Scotus - introduction à ses positions fondamental", Vrin, 1952-2005)の囓り読みを始める。とりあえず4章「偶然の起源」と、6章「質料」。スコトゥスの偶然をめぐる議論は徹底的に神学的なものだが、ジルソンの整理では、神の全能性と現実的な偶然性の折り合いをどうつけるかという問題をめぐって、スコトゥスはその折り合いを神の「意志」(知性ではなく)に見たのだと説く。知性がすべてを創り上げるのであれば、そもそも偶然の入り込む余地はなく、すべてが必然になるはずだが(アヴィセンナはまさにそういう立場か)、知性とは別に神の意志が介在していることにより、偶然が導かれるというわけだ。たしかにスコトゥスにおける知性が、意志に対してニュートラルであるというのは、テキストからもわかるのだが、ずいぶん前に読んだテキスト(Scotus, "Contingency and Freedom - Lectura I 39", kluwer, 1994)などはより細やかな論理学的議論が展開していた印象だった……。質料に存在論的な「主体性」があるという話も、それがスコトゥスの転換であるかのような語り口がちょっと気になった。思想史的にはアリストテレス主義の流れの中でそういう捉え方が熟成されていくような気がするので……。なるほど、こうしてみるとジルソンの論も、フランスなどで多用されるような、やや強引にテキストに網目をかけてしまうアプローチなのだなあ、と。実証研究を重んじる側からは評判が悪かったりもする……具体的な引用が少なく、ジルソンがみずからの言葉で語っている部分が多い点も、そのことの現れか。けれども、それはそれで興味深いやり方にもなりうるし(テキストの読み方として瞠目させられる場合も少なくないし)、要はバランスということなのだろう。実際ジルソンのスコトゥス論は、スコトゥスの思想において個々のエレメントがどう有機的につながっているかという点を俯瞰するには、とても面白い文献になっている気がする。
この本、ジルソン自身が創設したという「中世哲学研究叢書」の一冊となっているが、このシリーズは、ビュリダンの論理学の書から取ったものという「弁証法の輪」が表紙を飾っている。これ、離して見るとまさにマンダラ。ネットにも小さな画像が転がっていたので、再録しておこう。

このところ酷暑続きのせいか、体調もイマイチ。暑気払いというわけでもないけれど、このところ注目度が上がってきているジャン=リュック・マリオンの著書をちらちらと眺めてみる。ちょっと面白かったのが、『存在なき神』(Jean-Luc Marion, "Dieu sans l'être", PUF, 1982-91)の末尾を飾る小論「聖トマス・アクィナスと存在=神=学」。マリオンはまず、ハイデガーの唱える存在神学の基準からトマスの神学を捉え返すことはできるかのかとの一種の実験を行う。存在神学の基準は、(1)「神」が形而上学の場に記され、(2)あらゆる存在者の原因をなしていて、(3)みずからの自己原因にもなっていなくてはならないとされるのだが、トマスの神学は、そのどれにも該当しないことが順次確認される。トマスにおいては神は形而上学の外にあって、そもそも一般的な存在者のカテゴリーを逸脱しており、結果的に原因として捉えきれるものではない……なるほど、存在神学にはあてはまらないのだなあと妙に納得していると、ここでいきなり不意打ちのように論点が逆転する。つまり、存在するという行為を引き受けることで、トマスの「神」は、一般的な存在者を超えた存在としてみずからを表すというのだ。これは前例のない、根源的な存在神学だ、とマリオンはいう。まさにそれは別様の存在論、存在神学を成立ならしめるような存在論なのだと。
そういえば、先に取り上げたクルティーヌの『類比の発明』では、トマス自身のテキストに「存在の類比(analogia entis)」という言い方は出てこないことが指摘されていた。それは弟子たちが公式化したものであって、トマス自身はむしろ範疇論としての類比を考えていたのだという。トマスの場合、存在を「行為」と捉えることから、あくまで被創造物の存在が神的な存在を模倣するという意味において、前者は後者に由来するとされるのであって、両者の間には有限者と無限者の間の「比較にならないという性質」が横たわっているという。これって上のマリオンの議論ともつながっていく感じ。「存在の類比」説についても、改めてもうちょっときちんと把握したいと思う次第だ。