2008年08月05日

マリアとマルタ

岩波現代文庫で出ている上田閑照「哲学コレクション」から、4巻『非神秘主義--禅とエックハルト』を読んでみる。コレクションというだけあって、これは個人論集。神秘主義という名前でまとめられるマイスター・エックハルトの思想が、禅の思想に通底するという話は結構前からあるけれど、それを具体的に示して見せた上で、その神秘主義という括りは適切ではないということ、あるいはそういう括りを脱臼させてしまうべきことを、形を変えながら様々に論じている。禅的な「離脱」を説くエックハルトは、その表象可能性のはぎとりを極端にまで進め、「神を放下する」「神から離れてある」といったかなりラディカルな、逆説的な表現すら用いるようになる。

で、面白いのは、そうした基本的なスタンスから、「マリアとマルタ」の逸話について、エックハルトが一般的なものとは逆の解釈を示しているというくだりだ。接待にかまけているマルタではなく、キリストに聞き入っているマリアのほうが義認されたというのが通常の解釈だろうけれど、エックハルトはむしろマルタのほうに完成形があるという見方をするのだという。実生活の具体的なものごとに関わることによって高い認識を得ているマルタは、法悦に溺れそうになるマリアを救おうとして声をかけるのだという。なるほど、げにエックハルトの教説は興味深いのだな、と。

上田氏はこのエックハルトの解釈を示した後で、そのエックハルトの教説に照応するかのような絵画のコピーをロッテルダムのボイマンス美術館で見たことがあると述べている(p.323)。その絵は食事の準備にいそしむマルタを大きく描き、キリストとマリアは背後に小さく描かれているのだという。うーん、これはとても気になる。通常はやはりキリストとマリアを前面に描くだろうからね。というわけでネットで検索してみたのだけれど、これ、たとえばベラスケスの絵がそれに近そう。ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵の「マリアとマルタの家のキリスト」だけれど、確かにこれはそういう構図になっている。ベラスケスがエックハルトの説教を読んでいた?うーん、それはまた謎だ……(笑)。

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投稿者 Masaki : 23:21

2008年07月03日

トマスの「自然学」

トマス・アクィナス『自然の諸原理について』(長倉久子ほか訳、知泉書館)を読了。ラテン語対訳本。こういう対訳本はできればもっと出してほしいところ。トマスのテキストは小品ながらアリストテレス的な「自然学」のエッセンスをまとめたような密度の濃いもの。現実態/可能態、形相/質料、四原因の理論などが手際よく説明されていく。興味深いのは、自然の原理として「質料」と「形相」のほか「欠如」が挙げられているところか。すぐには確認できないけれど、欠如(ステレーシス)はアリストテレスも取り上げてはいたものの、第三の原理としてはっきりとは打ち出していなかったように思う。欠如が原理として持ち上げられるのは、師匠のアルベルトゥス・マグヌス譲り、ということか。この「欠如」は、non esse actuだとされ、「現実にはあらぬこと」と訳されているけれど、実質的にはまだ現実的な形を取っていないもの、というような意味で、質料と形相が結びついて可能態が現実態へと「生成」する際の重要な中間項の役割を果たすものと考えられている。これは存在論的にも面白い観点だ。

いずれにしてもトマスの自然学的な議論はちゃんとさらっておかないと、という気はする。そういえばこの間、ある出版関係の小パンフ(?)で、どこぞの大学のセンセ(もと編集関係の大物という話だが)が、ルーベンスタインの『中世の覚醒』について触れ、アリストテレスの再発見から『神学大全』への結実までは壮大なドラマなのに、同書は煩瑣な(スコラな)神学論争ばかり描いていてつまらん、勘所をストレートに紹介せんかい、みたいな苦言を呈していた。でも、それはトマスを中心に見る従来型の(いかにも文学部ごのみな)「大物志向」の発想でしかないのでは。肝心なのは、むしろ歴史の流れを複線的に見る見方なはず。西欧世界へのアリストテレス思想の流入の結果には功罪両方があって、かならずしも『神学大全』だけに「結実」したわけではないのだし。

投稿者 Masaki : 23:45

2008年06月30日

ダンテの新訳もぜひ(笑)

ジョルジョ・スタービレ『ダンテと自然哲学』(Giorgio Stabile, "Dante e la filosofia della natura -- Percezioni, linguaggi, cosmologie", Sismel-Edizioni del Galluzzo, 2007)をちらちらと見始める。これは個人論集。この最初のほうの数編にソネットの分析を通じて知覚論などを浮かび上がらせるというものなどがあって、これにちょっと刺激を受けて、ダンテの『新生』(普及版の岩波文庫:山川丙三郞訳)を久しぶりに読み直してみた。で、感じたこと。さすがにこの初版1948年の版は、見事な名文ではあるものの、少々古い感じもしてきた。古典の新訳はいろいろと言われるけれど、やっぱりどこかの出版社が出してほしいなあ、という気が改めてした。確かに『新生』にも角川文庫版とかあるらしいのだけれど、それにしたって1967年とかそういうもの。そもそも古本でしか手に入らない。結構現代的な訳でも面白いと思うのだけれどなあ。訳す人は結構いるはず。実際、『新生』のソネットも、かなりいろいろな読み方ができて興味深い。上の論考ではないけれど、視覚論がらみで鏡や衝立の隠喩の織りなし方とか、そもそもベアトリーチェと重ね合わせられる神的なものの追求とか、まだまだいろいろと楽しめそうだと今さらながら改めて思う(笑)。そうそう、コスモロジーもね。

投稿者 Masaki : 23:27

2008年06月25日

夏の課題(笑)

暦の上ではすっかり夏だけれど、やっぱり夏は大型の課題をこなすって感じで臨みたいところ。でもって、今年はすでにいくつか計画ができつつある。そのうちの一つは、ブラバンのシゲルス『形而上学問題集』をある程度読み進めること。シゲルス本人の手によるものではなく、弟子の誰かがまとめた講義録。すでに2年ほど前、この「ケンブリッジ写本」+「パリ写本」(Armand Maurer編、Louvain-la-neuve, 1983)を「3巻」あたりまで読んだのだけれど、そこで一端中断してあった。で、今回、「ミュンヘン写本」+「ウィーン」写本の合本(William Dunphy編、Louvai-la-neuve, 1981)をやっと入手したので、ちょっと突き合わせて読んでみようかと。基本的にはアリストテレスの『形而上学』の注解的な講義になっている。この両方の版、それぞれの項目の表現はだいぶ違っているけれど、構成とかは同一なので、双方を見比べるとそれなりに補完される感じになる。どちらかだけ読むよりも、はるかに面白い感じだ。シゲルスの講義がどんなものだったか、ちょっとばかり立体的に浮かび上がってくるような気もする(その昔、学生時代に、ソシュールの講義の学生たちによるノートを比較しつつ読むという授業に少しばかり出ていたことがあったのを思い出した(笑))。形而上学の注解は、アフロディシアスのアレクサンドロスによる注解本も、相変わらず読んでいるので(今はデルタ巻がもうすぐ終了、次はそこから戻ってガンマ巻あたりを攻めるかと)、この夏は形而上学注解にどっぷり浸かりたいところ(笑)。

投稿者 Masaki : 23:15

2007年12月03日

トマスの本質論

トマス・アクィナスの"De Ente et essentia(存在するものと本質について)"を、羅伊対訳本("L'ente e l'essenza", trad. di Pasquale Porro, Bompiani, 2002)で読む。というか再読というか(メルマガのほうとの関連もあって)。若き日のトマスは、ケルンでアルベルトゥス・マグヌスの教えを受けた後にパリに赴任したわけだけれど(1252年)、この小品はちょうどそのころのもの。訳者の序文によると、出回っている写本の別タイトルとして「何性と本質について」「存在するものの何性について」「本質について」などがあったとされているけれど、実際のところ内容は「本質」(=何性)をめぐる形而上学的議論という感じだ。まずトマスは、「存在するもの」(ens)と言う場合に、大別するとそれが類を指す場合と文が示す意味を指す場合があるとして、前者の場合を「本質」と称するほうがよいと述べる。これをもとに、今度はその本質についての考察が繰り広げられる。複合的実体(つまり形相と質料から成る実体)の場合についてと、分離した実体(つまり質料を伴わない形相としての実体)の場合、そしてさらに神の本質の定義(存在との同一)、最後に偶有性の話ときて締めくくられる。全体を貫く基調は神学的な視座。このあたり、唯名論に対する実在論の基本線が実に良くまとまっているように見える。ちなみに稲垣良典『トマス・アクィナス』(講談社学術文庫)によると、邦訳は三種類あるとのこと。

投稿者 Masaki : 20:58

2007年11月01日

獲得知性

今年も『中世思想研究』(49巻)が出ていたのでさっそく見てみた。このところ少し対象が広がってきていることは、近世から中世を振り返るというそのシンポジウムの論題などを見てもわかるところ。収録論文も、以前は圧倒的にトマスだった感じが、今号ではエックハルトやアルベルトゥス・マグヌスなどを扱った論文も収録されていたり。特に後者(小林剛「アルベルトゥス・マグヌスにおける表象力について」)では、表象力(ここでは感覚をベースとした判断のことを言っている)をめぐって、教父以来の伝統に立脚した過小評価と、アヴィセンナなどのアラビア思想による受容の温度差が指摘されていて、その点も個人的には興味深い。アルベルトゥスはアヴィセンナをベースとしているわけだけれども、先日触れたグンディサリヌスの話と関連づけるなら、1世紀にも満たないスパンの間に、教父的伝統(ボエティウスも含めて)からアラビア思想へとシフトしたことが改めて如実に感じられたりもする。この学会誌に載っているような様々な論考は、本当ならページ数の制約がある論文ではなく書籍として読みたいところ。あるいはページを増やしてもらいたい気もするのだけれど……著者たちもそれならもっと力作に出来るだろうに、と。でも出版事情はますますアレだからなあ……。

アルベルトゥス・マグヌス関連で言えば、またしても『境界の知』からだけれど(苦笑)、イェルク・ミュラーの「アルベルトゥス・マグヌスの倫理学へのアラビア知性論の影響」(Jörg Müller, 'Der Einfluß der arabischen Intellektspeklation auf die Ethik des Albertus Magnus')がとても面白く読めた。この著者は、アルベルトゥスが用いている「獲得知性(到達知性):intellectus adeptus」を考察するために、いったん知性論の系譜を遡り、アフロディシアスのアレクサンドロス、アル・キンディ、アル・ファラービー、アヴィセンナ、アヴェロエスのそれぞれの知性分類方法を端的にまとめた上で、改めてアルベルトゥスに戻り、その知性論の体系を年代的に3段階に分けて、獲得知性についての考え方の変遷を追い、その倫理学へのアル・ファラビーの影響に光を当てている。なんとも手堅く、それでいて実に「読ませる」アプローチ。欧文で20ページそこそこだけれど、ずっしりと存在感のある論考。このイェルク・ミュラーという人は、アルベルトゥスの倫理学に関する単著もあるらしく、それがまた高い評価を受けているようだ。ちょっと注目株かも。

投稿者 Masaki : 23:28

2007年10月09日

ensやessentiaの来歴とか

エティエンヌ・ジルソンの代表作の一つ『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000)を部分的に読む。タイトル通り、存在と本質の概念をめぐる、古代ギリシアからハイデガーまでのいわば通史。とりあえず3章、4章と付録の1をざっと。アヴィセンナからドゥンス・スコトゥスへと伝えられ深化をとげる「本質の偶有としての存在」というテーゼあたりの話がとりわけ興味深い。付録の語彙に関する小論もあざやか。ギリシア語のτὸ ὄνを訳すにあたって提示された、ensやentiaはボエティウス以後に定着するというけれども、実はそれ以前に古くから語としては提案されていて(クィンティリアヌスがセルギウス・フラウィウス某という名を挙げているのだそうだ)、ただ普及はしなかったというわけだ。essentiaも同様で、これなどはセネカが使っているにもかかわらず、写本の筆写者たちが理解できずに修正してしまっているものなどがあるという。それが広まるのは、三位一体をめぐる論争によってだったというのがまた面白い。同じように、existentiaが中世盛期に用語として定着するのも、ローマのジルとガンのヘンリクスとの論争があればこそだったという。うーん、神学論争は思わぬところにそういった余波を生み出していたわけだ。

投稿者 Masaki : 20:00

2007年08月27日

ポルピュリオスの樹

ペトルス・ヒスパヌスの『論理学綱領』(Pietro Ispano, "Trattato di logica", trad. Augusto Ponzio, Bompiani Testi a Fronte, 2004)をちらちらと読み始める。とりあえず5章目まで。ペトルス・ヒスパヌスは後に教皇ヨハネ21世となった人物。同書は13世紀に書かれて以来、論理学の教科書として使われていたもの。確かにかなり簡潔にして要領を得た記述が項目ごとにまとまっている。この記述の形式そのものがちょっと興味深い気もする。で、ポルピュリオスの『イサゴーゲー』に準拠するとされる、いわゆる「ポルピュリオスの樹」も、2章目の中程でとくになんの説明もなくポンと出てくる。そういえば、先の『中世と近世のあいだ』(知泉書館)所収の論文、山下正男「十四世紀の論理学」によると、このポルピュリオスの樹、項目の若干の変更はあっても、ほぼそのままの形で19世紀や20世紀初頭にいたっても、伝統論理学の入門書に引き継がれていたという。さらに、このポルピュリオスの樹が『定義のための道具」という側面と、「三段論法のための道具」という側面をもっていて、さらにアリストテレスの三段論法とは違って固有名詞まで扱っているというところが問題含みなのだという。そういえば同時代のルルスが用いる円も、同じく定義と三段論法のための道具だったっけ。これ、円環で表されているものの、基本的な発想はツリーだという印象がある。ルルスには「学問の樹」もあるし。なにかこの、中世盛期のツリーについて、その考古学みたいなものが改めて気になってきた……(笑)。

投稿者 Masaki : 23:57

2007年08月21日

ジルソンのスコトゥス論

先に見たA.-M.ゴアションの本の、アヴィセンナのドゥンス・スコトゥスへの影響という話に触発されて、大御所エティエンヌ・ジルソンによるスコトゥス論『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス--その基本的立場への誘い』(E. Gilson, "Jean Duns Scotus - introduction à ses positions fondamental", Vrin, 1952-2005)の囓り読みを始める。とりあえず4章「偶然の起源」と、6章「質料」。スコトゥスの偶然をめぐる議論は徹底的に神学的なものだが、ジルソンの整理では、神の全能性と現実的な偶然性の折り合いをどうつけるかという問題をめぐって、スコトゥスはその折り合いを神の「意志」(知性ではなく)に見たのだと説く。知性がすべてを創り上げるのであれば、そもそも偶然の入り込む余地はなく、すべてが必然になるはずだが(アヴィセンナはまさにそういう立場か)、知性とは別に神の意志が介在していることにより、偶然が導かれるというわけだ。たしかにスコトゥスにおける知性が、意志に対してニュートラルであるというのは、テキストからもわかるのだが、ずいぶん前に読んだテキスト(Scotus, "Contingency and Freedom - Lectura I 39", kluwer, 1994)などはより細やかな論理学的議論が展開していた印象だった……。質料に存在論的な「主体性」があるという話も、それがスコトゥスの転換であるかのような語り口がちょっと気になった。思想史的にはアリストテレス主義の流れの中でそういう捉え方が熟成されていくような気がするので……。なるほど、こうしてみるとジルソンの論も、フランスなどで多用されるような、やや強引にテキストに網目をかけてしまうアプローチなのだなあ、と。実証研究を重んじる側からは評判が悪かったりもする……具体的な引用が少なく、ジルソンがみずからの言葉で語っている部分が多い点も、そのことの現れか。けれども、それはそれで興味深いやり方にもなりうるし(テキストの読み方として瞠目させられる場合も少なくないし)、要はバランスということなのだろう。実際ジルソンのスコトゥス論は、スコトゥスの思想において個々のエレメントがどう有機的につながっているかという点を俯瞰するには、とても面白い文献になっている気がする。

この本、ジルソン自身が創設したという「中世哲学研究叢書」の一冊となっているが、このシリーズは、ビュリダンの論理学の書から取ったものという「弁証法の輪」が表紙を飾っている。これ、離して見るとまさにマンダラ。ネットにも小さな画像が転がっていたので、再録しておこう。
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投稿者 Masaki : 23:08

2007年08月17日

トマスの革新性?

このところ酷暑続きのせいか、体調もイマイチ。暑気払いというわけでもないけれど、このところ注目度が上がってきているジャン=リュック・マリオンの著書をちらちらと眺めてみる。ちょっと面白かったのが、『存在なき神』(Jean-Luc Marion, "Dieu sans l'être", PUF, 1982-91)の末尾を飾る小論「聖トマス・アクィナスと存在=神=学」。マリオンはまず、ハイデガーの唱える存在神学の基準からトマスの神学を捉え返すことはできるかのかとの一種の実験を行う。存在神学の基準は、(1)「神」が形而上学の場に記され、(2)あらゆる存在者の原因をなしていて、(3)みずからの自己原因にもなっていなくてはならないとされるのだが、トマスの神学は、そのどれにも該当しないことが順次確認される。トマスにおいては神は形而上学の外にあって、そもそも一般的な存在者のカテゴリーを逸脱しており、結果的に原因として捉えきれるものではない……なるほど、存在神学にはあてはまらないのだなあと妙に納得していると、ここでいきなり不意打ちのように論点が逆転する。つまり、存在するという行為を引き受けることで、トマスの「神」は、一般的な存在者を超えた存在としてみずからを表すというのだ。これは前例のない、根源的な存在神学だ、とマリオンはいう。まさにそれは別様の存在論、存在神学を成立ならしめるような存在論なのだと。

そういえば、先に取り上げたクルティーヌの『類比の発明』では、トマス自身のテキストに「存在の類比(analogia entis)」という言い方は出てこないことが指摘されていた。それは弟子たちが公式化したものであって、トマス自身はむしろ範疇論としての類比を考えていたのだという。トマスの場合、存在を「行為」と捉えることから、あくまで被創造物の存在が神的な存在を模倣するという意味において、前者は後者に由来するとされるのであって、両者の間には有限者と無限者の間の「比較にならないという性質」が横たわっているという。これって上のマリオンの議論ともつながっていく感じ。「存在の類比」説についても、改めてもうちょっときちんと把握したいと思う次第だ。

投稿者 Masaki : 14:14