ジョージ・リプリー(錬金術師)

ripleyジェニファー・ランプリング「中世の錬金術的コスモスを描く:ジョージ・リプリーの下位天文学の『輪』」(Jennifer M. Rampling, Depicting the Medieval Alchemical Cosmos: George Ripley’s Wheel of Inferior Astronomy, Early Science and Medicine 18-1-12, 2013)という論文を、とても興味深く読んだ。ジョージ・リプリーは15世紀のイングランドの錬金術師。その主著『錬金術集成』(Compound of Alchemy, 1471)または『一二の門』巻末に収録されている、「輪」と称される付録の円形の図について考察したもの。錬金術でよく用いられるアナロジーとして、天空と地上との照応というテーマがあるという。中世の文献以来、錬金術は「下位の天文学」だとされ、錬金術書において天文学的な図表が用いられることは、そのイコノグラフィ的な特徴の一つにすらなっているのだとか(もっとも、ラテン語の錬金術文献は13世紀後半になるまで図を伴うことはなかったらしく、ピサのコンスタンティヌス『秘密の書』というのが最初期のもので、そこでは各種金属の特性が創造の6日間に対応させられているのだとか。このあたりは同論文で紹介されているバーバラ・オブリストの論文(Barbara Obrist, Visualization in Medieval Alchemy, Hyle, 2003)に詳しい)。この論考の主人公ジョージ・リプリーの『一二の門』(英語による詩作品)では、錬金術は12の門をもつ城として描かれ、その12の門のそれぞれに様々な事象の分類が収められているのだという。偽ルルスの『遺書』などをベースに、四元素同士の変化などが配されていたり、物質の純化プロセスが魂の道行き(煉獄の火から天国へ)に喩えられていたり。で、詳述されるそうした変成全体のダイジェストとなっているのが、その巻末の「輪」の図なのだという。

円形の図でもって知識を分類するという方法は、セビーリャのイシドルス以来、中世初期からの自然学の伝統をなしていた(とはいえ、長方形を四分割して四元素などを当てはめる図もあり、円形が必ずしも主流だったわけでもないようなのだが……)。同心円的に図を重ねることで、諸要素の関連性をプロットしながらコスモロジーを表すチャートが作れるのは確かに便利だ。リプリーのソースにもなっている偽ルルス文献などでもそれは大いに活用されている。で、論文著者によれば、リプリーの場合、単一の図に錬金術の著作全体を凝縮して詰め込んでいる点が特徴なのだという。そこに描かれているのは「錬金術的コスモス」、つまり「移ろいやすい地上の元素から天上的な完成物の生成を描く、真の「下位の天文学」」なのだ、と。いずれにしてもリプリーの円形の図が、15世紀イングランドに流布していた錬金術的な考え方や図の典型を表していることは間違いないという。

スコラ的論争形式の略史

ヨハン・フォン・アルムスハイムによる1483年の木版画。キリスト教とユダヤ教の神学者たちの論争を描いている
ヨハン・フォン・アルムスハイムによる1483年の木版画。キリスト教とユダヤ教の神学者たちの論争を描いている
アレックス・ノヴィコフ「スコラ的論争の文化史に向けて」(Alex J. Novikoff, Toward a Cultural History of Scholastic Disputation, The American Historical Review, vol. 117(2), 2012)という論文を読む。スコラ的な論争形式の成立から発展、隣接領域などを含んだ拡大などを、文化史的な見地を絡めて捉えようという意欲作。なかなか面白い。というわけで、全体の流れをまとめておこう。そこでは論争形式の発展を5つのステップで描き出そうとしている。まず一つめは成立期だ。スコラ的な論争の形式はもともと、古代からの対話篇・雄弁術の伝統がキリスト教世界に受け継がれ(アウグスティヌス、ボエティウスなど)ていたものを、11世紀末から12世紀初頭にかけて、アンセルムスが修道院内での教育のための方法として整備したのが始まりという。アンセルムスの師匠でもあったランフランクスその他にもそうした方法を用いていた人々はいたようなのだが、対話形式での文章の多さなどを根拠に、論文著者はアンセルムスに転換点を見ている。第二のステップは発展期だ。対話形式はアンセルムの周辺から広がり、11世紀から12世紀にかけて一気に花開くことになり、多くの文献がその形式で書かれるようになる。神学的論争にとどまらず、北イタリアやフランスなどで盛んになったローマ法の研究においても活用されることになる。第三のステップとしては、アリストテレスの新論理学の翻訳が進んだことが挙げられている。これが12世紀半ばにかけてスコラ的な論争形式に多大な影響を及ぼす。アリストテレスの重要性をいち早く見出した人々には、バルシャムのアダム、アレクサンダー・ネッカム、ソールズベリーのジョンなどがいた。論文著者によると、12世紀において修道院神学者とスコラ的神学者を分けることになるのが、この論争の実践にあったという。それは日々の自由学芸の訓練の中心をなしていた、というわけだ。パリ大学の正式な成立前(成立は1215年)にあたる12世紀末には、すでに講義室が論争の場となるなど、論争が活用される場は十分に整えられていき、大学成立後はいっそうの制度化が図られるようになる(自由討論の創設など)。これが第四のステップ。

さらにその論争形式・対話形式は、教会がユダヤ教などの異教に対峙する際にも大いに活用されたともいう(1240年の、通称「タルムード裁判」ことパリでの公開討論会など)。これが第五のステップだ。裁判の結果タルムードは焚書となるが、これが教皇庁側からユダヤ教側への大規模な攻勢の発端となり、その先頭に立つことになったのがドミニコ会だというわけだ。そのための手段はもちろん論争だ……。一方で著者は、そうした対話や論争の考え方はより広い文化的文脈に影響を与えていて、その一つが音楽におけるポリフォニーの開花だと指摘している。12世紀末のパリという成立時期・場所も同じなら、モテットなどの内実(まさしく声による対話だ)もまさにそのことを示しているのではないかという。この、音楽との絡みという話はごくわずかに触れられているだけなのだけれど、このあたり、もっと深めることができそうなテーマのようにも思われる。

雑感:古典化する旧「現代」思想


前回のアーティクルとの関連で旧「現代」思想話をもう一つ。今度はデリダについてだけれど、これも先のフーコー論に似て、その思想世界の一端を見通しよくしてくれる小著を読了した。パトリック・ロレド『ジャック・デリダ−−動物性の政治と倫理』(Patrick Llored, Jacques Derrida : Politique et éthique de l’animalité, Sils Maria, 2012)。もともとこれは「5つのコンセプト」という叢書のシリーズ(入門書として企画されているみたいだ)らしく、デリダの動物性の議論に関する5つのコンセプトを挙げて、その思想の全体像をたぐり寄せるという、ちょっとした荒技のような妙味を感じさせる。西欧における人間の象徴世界の存立基盤をなしているのは、「動物」もしくは「動物的なもの」、あるいは「動物性」を放逐・排除するプロセスであり、そうした一種の「暴力」を通じてこそ、人は主体として君臨し、法とモラルの世界をわがものにできる……そのことをデリダは様々に変奏し暴いていくのだというわけだが、全体の記述は良い意味でストレートで、デリダの研究書によくある衒いや迷いがあまり感じられない。それだけにとても「見通しの利く」概説書になっている気がする。こうした多少とも「見通しのよい」概説書が出るというのは、それだけ多くの研究が蓄積されてきたことの現れなのだろうけど、それだけ旧「現代」思想が古典化してきたということなのかもしれない。

「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へでも、ある意味それはとても喜ばしいことではある。なにしろ、道なき道のようにも見えた膨大なテキストの森を、どこぞの高台から俯瞰することがようやく可能になってきたということだから。けれども、そうした思想をもっと同時代的でヴィヴィッドなものとして受け止めざるを得なかった旧世代(個人的には私もそちら側なんだよなあ)からすると、そんな迷走体験から高台へと、なかなか自覚的にすんなりと移動することはむずかしい(かな?苦笑)。最近出た山内志朗『「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013)を読み始めたところなのだけれど、これなども、そうした抵抗感のようなものを如実に感じさせる。森の中をあえて進もうとしてきた著者の気概そのものが文章に滲んでいて、どこか共感と覚えると同時に、改めてその苦行の一端(著者の苦行は半端ではなかろう……)をまざまざと見る思いがして辛いものがないでもない……(同書の中身についてのメモなどはまた改めて)。

フーコーと統治

フーコーの闘争―〈統治する主体〉の誕生このところ元「現代」思想系の研究書がいろいろ出ていて少しばかり活況を呈しているみたいで、個人的にもちょっと読書の純粋な楽しみが久々に広がっている気がする(笑)。それらのうちの一つ、箱田徹『フーコーの闘争―〈統治する主体〉の誕生』(慶應義塾大学出版会、2013)を読了したところ。ミシェル・フーコーの思想的歩みを、統治概念を軸に整理し、その全体像を刷新しようという試み。80年代ごろの紹介のされかたとは、もはや一味も二味も違う。フーコーもつまみ食い程度しか見ていない身としては(苦笑)、こういう整理はとてもありがたい。で、その肝となる部分はというと、フーコーが権力と抵抗といった二元論ではなしに、両者が不可分に表裏一体化しているという一元論を採っているのではないかというテーゼだ。初期の権力論においてすでに、権力が遍在するならばそこから「逃れる」可能性を議論するのは無意味で、そこで問われるべきは権力に人々がどういう関係を結んでいるかだということとされる。権力があるところ、抵抗は常に付随する。後にフーコーのテーマとして浮上する「性の科学」(著者はこれを、告解させ記録させる技術と知の複合体と読み解く)と「エロスの技法」(こちらは自己への配慮とイコールだ)も同様に分かちがたく結びついているといい、またそれらは性や快楽の問題に限定されずにもっと一般的な射程で捉えるべきものだとされている。それらの発展形となるのが「司牧神学」と「対抗導き」の概念だという。司牧の権力もまた統治の一つの政治形態だといい、さらに宗教改革および30年戦争以降、人を単位とする統治が世俗化して国家の統治と結びついていく……。

同書では、両大戦間に生まれた新自由主義の積極的介入策についての解釈や、イラン革命をめぐるフーコーの立場などについても同じ文脈から取り上げられている。また後期フーコーの主体の成立議論の発展、さらには晩年のパレーシア論にいたるまで、フーコーの思索的な歩みをひたすらぶれることなく「統治」問題の視点から一元的に整理してみせている。「統治する者と統治されるものとのあいだの統治的な関係は、統治者が被治者を思いのままに導く「一方的な」ものではない。そこには、導く側と導かれる側の司牧的なゲームが存在する。このとき被治者の側が、統治者の導きに反発して、別の導きを得ることや、己を導くことが<対抗導き>であるのだ」(p.142)。ちょうどこのところの特定秘密保護法案をめぐる動きを見聞きして、こうした文章にとりわけ共鳴する思いだった。その意味でもなかなかタイムリーな読書だったと思う。

ウルバヌス二世の演説

14世紀の『ゴドフロワ・ド・ブイヨン物語』から、ウルバヌス二世を描いた挿絵。
14世紀の『ゴドフロワ・ド・ブイヨン物語』から、ウルバヌス二世を描いた挿絵。
これはアプローチ的に興味深い一篇かも。ゲオルク・シュトラーク「クレルモンでのウルバヌス二世の説教と教皇の演説の伝統」(Georg Strack, The Sermon of Urban II in Clermont and the Tradition of Papal Oratory, Medieval Sermon Studies, Vol.56, 2012)(PDFはこちら)。十字軍の発端は1095年にウルバヌス二世が行った演説だとされているけれど、テキストそのものは残っておらず、後世の研究者たちによるその再構成の試みがあるだけだという話は結構有名だと思う。でもその際に使われる年代記作家のテキストについては、個人的にまったく知らなかった(苦笑)。この論考ではその主な3つのテキストを、ウルバヌス二世のほかの説教の記録や、グレゴリウス七世(ほぼ前任者)の類似のテキストなどと比較・検討しようというのが主旨。3つのテキストというのは、(1)シャルトルのフーシェ、(2)修道士ロベール、(3)ドルのボードリによるそれぞれの年代記。ウルバヌス二世の演説は、これらのテキストでかなり違った風に描かれているようだ。論文著者の整理によると、(1)での教皇の演説はさほどレトリックに凝らない淡々とした演説の形を取り、教会会議における通常の決定事項の宣言として十字軍の呼びかけがなされているという。それに反して(2)はレトリカルに洗練された好戦的演説で、聴衆もドラマチックな反応を示した(聴衆はフランク族系の人々で、ラテン語での説教なのに)とされる。(3)は、説教としてのレトリカルな構造をむしろ前面に出した演説とされ、一方で聴衆の反応も様々だったという。全体的に(2)と(3)は年代記としてのスタイルを洗練しようという年代記作家の意図が強く出ているという。

で、これらおのおのが何らかの伝統の上に立っているということが、ウルバヌス本人やグレゴリウス七世のほかの説教などからわかるのだという。両者の説教には(1)と同じような構造のものが見受けられるらしく、それらは11世紀後半から12世紀前半にかけて多くの教皇が行った、免属大修道院(教皇直轄の修道院)の正当化のための演説の長い伝統を踏まえたものなのだという。一方で教皇の伝記においては、教皇が説教の形で演説を行うというモチーフがよく使われていて、(3)などはそうした伝統に則ったものだと考えられるらしい。(2)もまた、1080年代にハインリヒ四世との叙任権論争が再燃した際、グレゴリウス七世が行った類似の演説があるという(ランゲリウスの『アンセルムスの生涯』にもとづく)。同じ演説の報告が、依って立つ伝統・モデルによっていわば「変奏」されていく様は、なんだかとても興味をそそる……(笑)。