今年の年越し本は、なにやら対照的なドゥルーズの研究書二冊。どちらもまだ途中まで。とはいえ両者とも、今現在のドゥルーズ研究の水準とかアプローチとかを垣間見せてくれるようでとても興味深い。
まずは昨年秋から一部で話題になっている(らしい)千葉雅也『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013)。以前はよくドゥルーズの「生成変化(devenir)」概念がベルクソンの継承という文脈で取り上げられ、様々なものに「接続」していくイメージで語られることが多かったわけだけれど、同書は、それと表裏一体になっている「切断」のイメージを前景化しようという壮大な試みのようだ。そのベースとなっているのが初期ドゥルーズのヒューム論。精神というのが「知覚の束」でできているというヒュームの説は、ドゥルーズによってかなり極端な形に変形され、主体は不安定なシステムであり、あらゆる経験がフィクションとして構成される、といったある種の極論にまで至る。で、この誇張されたヒューム論(精神の構成要素のバラバラさ加減)をもとにしてドゥルーズは、連続的な相として語られることの多かった生成変化に、それがもたらしうる全体化への抑制を仕掛けている……というのが基本的な解釈の軸か。ヒュームを(著者本人曰く)誇張して用いているというのが面白い着眼点だ。中盤以降はそうした解釈が、ホーリズム、ニーチェ論、個体化論など各テーマ系に適用されて、ドゥルーズがいたるところで切断のモチーフを奏でていることが反復的に示されるわけなのだけれど、そのあたりからは議論もそれなりに錯綜していく。なるほど読みとしては面白くもあるのだけれど、随所で癖玉を放ってくる感じは、決して読者に優しいわけではない。そのあたりは、どこか後期のドゥルーズ本人に重なってくる感じさえする(笑)。
これに対して、癖玉を極力排して直球の剛球勝負のように見えるのが、もう一冊の山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』(人文書院、2013)。こちらも初期のドゥルーズに着目している議論だけれど、趣きはずいぶん違う。ドゥルーズが初期に著した各種モノグラフ(ヒューム論、カント論、プルースト論)での議論がその後の「超越論的経験論」の成立や展開をどう支えているかを検討するというもので、見通しのよい思想的風景を描き出してくれていると思う。上の一冊のように言葉が祝祭的にざわめくのも見ていて心地よくはあるけれど、こうした抑制の利いた文体で描かれる実直なアプローチも見逃せない。こちらはこちらで、初期ドゥルーズの実直な文章をなぞったかのようで、個人的には感慨深いものもある。改めてヒュームの主体論に注目してみたくなったのが、年頭からの大きな収穫でもある。