極刑の略史(もしくは序説?)

西欧の歴史に長く息づいてきた死刑という制度は、キリスト教の倫理からはずいぶん離れたものに見えるけれど、そのあたりの成立事情などは、意外にもあまり正面きって考察の対象にされてきてはいないのではないか……でもってそれはなぜなのか。そんな問題意識から、極刑の略史(というか、むしろ大きな見取り図だ)をまとめた小論を眺めてみた。ジェームズ・メギヴァン「極刑:キリスト教世界でのその特権的地位の奇妙な歴史」(James J. Megivern, Capital Punishment: The Curious History of its Privileged Place in Christendom, Proceedings of the American Philosophical Society, Vol. 147, No. 1, 2003)というもの。まとめのメモを記しておこう。死刑はもともとユダヤの文化にあり(ハンムラビ法典以来で、旧約聖書にも受け継がれた)、それがローマを経てキリスト教世界に継承されることとなった。キリスト教は当初こそ死刑の活用に留保の姿勢を見せていたものの、4世紀のローマ帝国でのキリスト教国教化により、教会は潜在的な死刑執行者の立場に否応なく立たされてしまう。それに対して、アビラの司教プリスキリアヌス(4世紀)を嚆矢として、トゥールのマルティヌス、ミラノのアンブロシウス、ローマのセルギウスなどが死刑反対論を唱えるも、テオドシウス法典(438年)などにより厳格な死刑制度の運用は決定的なものとなる。アウグスティヌスなどは、国家が処刑する理論上の権利は認めつつも、その実際の施行を行わないよう一貫して求めていた……。

著者によれば、その後さしたる批判もないままに死刑がキリスト教の中で制度化されていった顛末については、まだ明らかになっていないことが多々あるという。たとえば次に大きな変化があるのは11世紀のグレゴリウス改革のころで、剣と騎士の聖別にともなう倫理観の変化が指摘されているが、これにも十分な光は当てられていないという。さらには十字軍や、グラティアヌス教令集などでの荒っぽい政治的立場の取り込み(職務上の殺害行為について、内的な意向と外的な行為とを分けて考える)などを経て、キリスト教世界での極刑は確固たるものとなっていく。トマス・アクィナス以前に勝負はついてしまっていて(トマスは後追いするしかなかった)、13世紀においては、極刑への反論は異端的な色彩を伴うものとして一蹴されていくという。かくして極刑は、自然法に裏打ちされた伝統的な政治制度となり、16世紀に一部の集団が戦争と極刑を疑問視し出すという動きはあったというが、反宗教改革後も制度はそのまま温存されていく。廃絶論が始まるのは、18世紀の啓蒙思想(チェーザレ・ベッカリアやヴォルテール)を待たなくてはならないが、これもまたカントの応酬刑主義的な議論などが皮肉にも体制維持側の論拠に使われるなどして、その制度的地位が揺るぐにはいたらず、問題ははるか先の第二次大戦後まで持ち越されていく……。全体的な見立てはこんな感じだが、なるほどこうしてみると、改めて上に名前の出ている初期教父、あるいは16世紀の反死刑論、啓蒙主義時代の撤廃論などをちゃんと読んでみたい気がする。そういえば死刑の問題についてはデリダの講義録の刊行も始まっているのだっけ(未読だけれど)。聞くところによれば死刑廃止論の脱構築、批判的な組み替えを行おうとしていたという話だったような……。このテーマは生政治の話でもあるわけだし、そのあたりも合わせて見ていけばいっそう面白くなりそうな気がする。