イアンブリコス『神秘について』から 4

続き。祈りの本質が自己の無の認識と、そこからの脱却にあることが示されている。

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(3.4 続き)だがあなたは、「嘆願は、純粋知性に対してなされる呼びかけとは異なる」と述べている。そんなことはまったくない。私たちが能力や純粋さ、その他あらゆる点において神々に劣っているからこそ、それらに究極の嘆願をなすことは、なににも増して時宜に適っているのだ。実際、もし誰かが私たちを神と比べて判断するならば私たちは何者でもないが、自分自身が何者でもないことの認識は、私たちをごく自然に祈りへと向かわせ、その嘆願から、私たちはわずかずつ、嘆願する対象に向かって進んでいくのである。そしてまた、その対象との継続的な対話から、私たちはその対象との類似を得、不完全な状態から神々しき完成へとおだやかに至るのである。もし聖なる嘆願を神々から人間へと贈られたものと考え、またその嘆願が神々のしるしで、神々にしか知りえないものであって、なんらかの形でそれらも神々と同じ力を有していると考えるのであれば、嘆願が感覚的なものであって、神的なもの、知的なものではないなどと、どうすれば正当なこととして受け止められようか?人間の徳ある行いをもってしても簡単には清浄にならないところ[嘆願]に、どのようなパトスがあれば理性的に入り込むことができるというのだろうか?

だが「供物とは感覚と魂をもった対象に捧げられるものである」とも言われる。仮に供物が物体的な効力や複合体のみによって満たされるか、あるいはひたすら感覚器官に仕えるよう従属しているのであれば、それは正しい。だが、供物は非物体的なものにも、なんらかの論理、この上なく質素な基準において与るのである。その点だけでも、供物は適切なものと見なされるし、近くもしくは遠くから見て、なんらかの類縁性、類似性が認められさえすれば、私たちが今述べている当の接触が生じるのである。なぜなら、わずかでも神々に属するとされたものであれば、神々がただちに現れ結びつかないようなものはないからだ。したがって、「感覚や魂をもった対象」のためではなく、まさしく神的な形相のもとでこそ、[供物と]神々とのあたうかぎりの結びつきが生じるのである。この区別についても、以上で私たちは十分に反論した。