オッカムと「神の存在証明」

page_000坂口昂吉ほか編『フランシスコ会学派における自然と恩恵 (フランシスカン研究)』(フランシスカン研究vol.4、教友社、2010)という論集を眺めているところ。収録論文のうち、個人的にとりわけ目を惹いたのが小林公「オッカムにおける神の実在証明」という論文。なるほど神の存在証明についてオッカムがどうアプローチしていたかという問題は、案外正面切って取り上げられてこなかった気もする(ホントか?)。同論考によると、オッカムはひたすらスコトゥスを批判しつつ自説を展開しているようで、スコトゥスの議論がまずもって重要になる。早い話、オッカムはスコトゥスの論点にことごとく反論を加えている印象だ。たとえば、スコトゥスは基本的に理性によって神の唯一性や原初性、無限性などが証明可能だと考えているのに対して、オッカムは理性のみによる論証は不可能だと考えているという。単一のものを複数化してみせたり、因果関係の鎖を解いてみせたりと、オッカムの反論は冴え渡る(現代的な意味合いでだが)。総じて、オッカムにとっては理性の議論は神の証明を扱うには限定的にすぎ、そこから先は信仰の領域になるということらしい。

スコトゥスが原因の連鎖の秩序をもとに、神に第一の産出的動因を見ているのに対して、オッカムはそれを根底から覆す。原因と結果の無限の連鎖が、その連鎖の外にいる存在者(すなわち神)に依存しているとするのがスコトゥスで(こうした支点が外部にあるという考え方は、哲学的認識論の型としては西欧に深く根ざしたものだが)、そうした連鎖が自己充足的でない理由もないとするのがオッカムだ(これはどこか現代思想的な転回を思わせるスタンスかも)。その上でオッカムは、産出されたものの原因ではなく、それが現実に保持される原因としての存在者ならば、実在が論証できるのではないかと考えているという。論文著者が指摘するように、これもまた厳密な証明にはなりそうにないのだけれど、少なくともオッカムが徹頭徹尾スコトゥスとの「対話」を通じて議論を練り上げている姿勢だけは、あらためて強く印象づけられる。最近の研究では、オッカムはスコトゥスを敬いつつも乗り越えようとしてさかんに批判しているのだという話になっているようだけれど、うーむ、それにしてはこの執拗さは半端ではないような(?)……。