ヘンリクスと懐疑論

Sur La Possibilite De La Connaissance Humaine (Translatio)久々にゲント(ガン)のヘンリクス。その『スンマ』の冒頭部分の羅仏対訳版が、『人間の認識の可能性について』(Sur La Possibilité De La Connaissance Humaine, trad. Dominique Demange, Vrin, 2014)というタイトルでつい最近刊行されていた。ヘンリクスといえば、このところ個人的に関心を煽られている懐疑論の系譜においても重要な人物。というわけで、さっそく同書から、ドミニク・ドマンジュによる冒頭の解説をざっと読みしてみた。ヘンリクスが考える認識論(人間の)は、基本的にアウグスティヌスに準拠しており、一三世紀に隆盛を見た範型論(exemplarism:知識はすべて、神の教えにおける範型の認識を拠り所とするという説)の一端に与っているという。けれどもヘンリクスの場合に特徴的とされているのは、古代の懐疑論を再構成してそれを論駁の対象としながら、自然的理性の不十分さを説き、神の介入を正当化しようというその独特の議論構成だという。懐疑論は中世には若干の例外(ソールズベリーのジョンなど)を除いてほとんど見られないといい、結果的にヘンリクスが向かう先も古代の論客たちということになったようなのだけれど、その際に典拠とされているのが、アリストテレスがソクラテス以前の諸学派に反論している『形而上学』第4巻と、新アカデメイア派を取り上げているキケロの『アカデミカ』だという。この後者はまた、アウグスティヌスがアカデメイア派について知りえた際の主たる典拠にもなっていて、ドマンジュの解説によると、ヘンリクスはキケロとアウグスティヌスが相互に対立関係にあることにあえて目をつむっているらしい。ほかにも範型論内部でのヘンリクスの立場や、ヘンリクスに対する後からの批判など、いろいろと興味は尽きない。

(雑感)連休明け

連休も足早に過ぎていった感じ。連休後半はいろいろ。なにより、5月2日から始まったiTunes Match(iTunesにリッピングした手持ちのCDのファイルについて、iTunesの提供曲ならそれをダウンロードでき、提供されていないものはiCloudに保存されるという例の有料サービス)のトラブルでストレスざんまい(苦笑)。早速登録したものの、多くの人が報告しているように、登録プロセスが遅々として進まなかった。個人的にはiTunesに入れているのは2000曲足らずと少ないにもかかわらず、3日間まったく進まずじまい。ところがこれが6日になったら、いきなり何事もなかったかのように完了した。なんだこれ?バグってたのかしら。

有楽町のLFJ(熱狂の日音楽祭)、今年は最終日のみ出かける。トリオ・カレニーヌによるラヴェルとハイドンそれぞれのピアノ三重奏曲(ラヴェルものはいろいろと聴きたい)、ミシェル・コルボ指揮のブラームス「ドイツ・レクイエム」(珍しいピアノ連弾版というやつ)、それからトーマス・エンコ・トリオのジャズセッションを聴いただけ。どれも見事な演奏だったけれど、とくにこの三つめが個人的には収穫かな。ステージ演奏の大音量で聴くジャズってのも悪くないなあ、と。ネットで見たら、このトーマス・エンコという奏者は2013年にも来日していたらしい。イケメン系で人気なのか。……それにしてもLFJ、来年のテーマは未定とかいう話がツイッターで流れていた。確かに10年で、フォーマットも心なしかちょっと古くさくなってきたよなあ。区切りの年なのかもね。

書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト休日読書からは松原隆一郎・堀部安嗣『書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(新潮社、2014)。一万冊入る螺旋階段状の書庫を建てた経済学者と建築家による手記。なかなか面白い。学者の書棚が一万冊程度で収まりきるわけはないのだけれど、まあ厳選して入れるということなのだろう。それにしてもこの建築デザインは秀逸な気がする。書庫の建築を思い立つまでの、相続や実家などについての思いなども、個人的経験もあって少しばかり実感的に分かる気はする。後半の実際の施工の話も、技術的な話などが散りばめられていて興味深い。建築物の手記というのはそれだけで価値があるものなのだなあ、と改めて思う。

固有名論と情報のネットワーク

名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学連休中読書ということで、これも最近出たばかりの藤川直也『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』(勁草書房、2014)を読んでいるところ(例によってまだ途中だが)。固有名論を扱った著書で、基本的にはミル説と称される「固有名の意味論的内容は指示対象以外ではない」という説のマイナー・リペアを中心の議論としている。ただ、その前提となる最初の二つの章では、かつてクリプキなどによって批判されて大いに後退したかに見える記述説(名詞の意味を担うのは、その名詞を述語づける記述の束であるという説)も、新たな議論を踏まえてアップデートされ、それなりの位置づけを得ている。そのアップデートの中心的アイデアになっているのは、記述の束を、発話をガイドするための一種の対象ファイルに見立て、発話者たちをいわばそうしたファイルが繋がっていくノードと見なし、全体が情報のネットワークを形成するという考え方だ。記述説をそれだけにとどめず、ネットワークとして社会的な説明へと開いていこうとするところがとても面白い。分析哲学特有の緻密な議論では、しばしばあまりにも限定的な規定がなされるために、それが取りこぼしている側面からの反論が出てこざるをえず、結果的に議論が大いに多様化していくような印象があるのだけれど、ここで示されているのはかなり弾力性をもたせた議論で、確かにこれで対応可能な異論の範囲はかなり広くなっているように思われる。名前全般の問題を考えるための、拡張を施す拠点的な考え方になるのかもしれない(そうかどうかは改めて考えてみないといけないけれど)。とはいえ、これは主に発話での指示についての議論で(あるいは前意味論的議論)、(著者が分けて考えているように)名前そのものの本来的な指示(意味論的議論)は、やはり直接指示という形で言語的規約を考えなくてはならないということになるようだ。

イアンブリコス『神秘について』から 5

続く箇所(3.5 – I 16)では、上位の存在について、それらが肉体(あるいは物体性)をもつかどうかという問題は基本的に不可知であることを説いている。

(3.5)あなたの書簡には続いて、肉体をもつかもたないかで神々をダイモンと区別するということが記されている。その区別はこれまでの区別よりもはるかに一般的で、それらの存在の個別の属性を示すことからかけ離れている。そのため、それらについても、それらに付随することがらについても、推測することはできない。というのも、それらが生物なのか生物ではないのか、それらが生命を欠いているのか、あるいは生命をまったく必要としていないのかを、その区別から知ることはできないからだ。さらに、一般的なもの、または多数の差異について述べるとするなら、どのような意味でそれらの語[肉体をもつ、もたない]が言われているのかも、容易には推測できない。一般的なものについて述べているのであるなら、肉体をもたないものを直線や時間、神、ダイモン、火、水といった類のもとに置くとしたら不条理である。多数性について述べているのであるなら、あなたが「肉体をもたないもの」と言う場合、明らかな像よりも神について述べるのはどうしてなのだろうか?あるいはあなたが「肉体をもつもの」と言う場合、ダイモンよりも土について問うほうがよいと思わないのはどうしてだろうか?というのも、ダイモンに肉体があるのか、肉体を超越しているのか、肉体を用いるのか、肉体を取り巻いているのか、それのみが肉体であるようなものなのかなどは、確定されてはいないからだ。だがおそらくは、そうした区別を徹底的に検証してはならないのである。あなたは自分の理解としてそれを示しておらず、他者の臆見を提示しているのだから。