復活の肉体論 (2)

トマスが人間本性ということで魂と肉体のセットを重んじていたことはわかったけれど、すると疑問になってくるのが、ではキリスト教において復活するとされる肉体にはどんな役割があるというのか、という点。で、これを扱った別の論文を見てみた。ジョン・メデンドープ「完全なる安息を見出す:復活の肉体に関するトマス・アクィナスの論」(John Medendorp, Finding Perfect Rest: Thomas Aquinas on the Resurrected Body, 2013)というもの。これはずばり上の問いを考察していて、復活した肉体がトマスの議論ではどのように扱われているか詳述している。トマスにおいては魂は肉体の形相(単一形相)であるとされ、これによって肉体が滅んだ後の魂の存続も容易に説明される。けれども、では「当人」(人格としての)は肉体が朽ちた後もどのように存続しうるのか。死にいたって肉体は滅ぶ以上、それは復活後も連続したものとはならない、とトマスは言う。その当人の人格は不死の魂においてこそ温存されるのだ、と。形相としての魂が復活において再び質料と結合すれば(質料そのものが破壊されるのではないので)、その当人そのものも修復されることになるというのだ。

でも、ならばそもそも復活においてなにゆえに肉体が必要とされるのだろうか。トマスは、魂が恒久的に肉体なしでいることは不自然で不完全な状態だと主張する。トマスのこの主張は死後の審判についても貫かれており、審判は魂のみに関わるものと、魂と肉体の両方に関わるものとで二重になっている、と考えているほどだ。死後に神とまみえること、すなわち至福直観(それには肉体は必要とされない)は完全な至福であるとされるわけだけれど、トマスはさらに「最上位の完全な至福」があると見る。どうやらその後者こそ、「栄光体」が付与される段階を言うらしい。肉体の復活は啓示の上では必要とはされないが、人間の自然本性ゆえに形而上学的に必要とされるのだ、というのがトマスの見解なのだという(同論考によれば)。もともと地上世界での肉体は、魂が最終的な目的(至福直観)へと進むことを助けるという重要な役割をもっているとされる。では復活した肉体はどういう状態にあるのかというと、魂との関係が逆転し、至福直観にいたる魂から肉体へと至福と愛とが注がれるようになるのだという。肉体はそのとき全くの安息のもとに置かれ、なんら苦役を背負うことがなくなる……と。これが論文のタイトルにある「完全なる安息」ということらしい。