学芸部(13世紀)の空気?

今年の5月にパリの社会科学高等研究院(EHESS)で行われたらしいシンポジウムでの発表原稿の一つが公開されていて、論文ですらないものなのだけれど、これがなかなか味わい深い。ステファンヌ・ムラによる「学知は可能か−−一三世紀パリの学芸部における<魂の学>の位置づけ」(Stéphane Mourad, La science est-elle possible ? Le statut de la scientia de anima à la Faculté des arts de Paris au XIIIe siècle)というもの。基本的には、ジエル、ステンベルゲン、バザンの共著『アリストテレス霊魂論への三逸名注解』(Trois Commentaires anonymes sur le traité de l’âme d’Aristote, Publications universitaires Béatrice Nauwelaerts, 1971)収録のテキストを読み比べてみるという趣向(さらに参考として、ボルドーの写本も挙げられている)。収録された霊魂論は、立場こそ違えど、いずれも同じファミリーに属する雰囲気(空気)を共有しているのだという。さらにそれらのテキストからは、魂論が神学に次ぐ重要な学知として位置づけられていることが見てとれ、しかもアリストテレスが人間霊魂について述べたことを学ぶという姿勢(狭義の霊魂論)から、学知全体への省察へと移行している様子が窺えるのだという。そのあたりの反省的知見は、当時の文脈において、神学という上位学問に対する学芸部の教師たちの、一種の劣等感を表しているかもしれないともいう。なるほど、そういう意味での「空気」ということか。発表原稿だけに、詳しい議論などは省かれているけれど、もしその「空気」というあたりを深く掘り下げるのであれば、それはぜひ論文の形で読みたいところ。

思考と退却(byアーレント)

ハンナ・アーレント [DVD]先日ようやく、映画『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督作品、2012)(オフィシャルサイトはこちらをiTunesのレンタルで観た。扱われる事象の重さ(アイヒマン裁判それ自体や、アーレントが被った精神的な傷などなど)に対して、全体的に淡々とした、よく言えば抑制の利いた、悪く言えば薄味の演出だったような気もするのだけれど、ま、それはともかく。字幕で一つ引っかかったのが、ハイデガーとの回想シーンで出てきた「情熱的思考」という言葉。うーん、そんなのハイデガーにあったのかしら、と思ってネットを探してみるが、どうもそれらしいものにヒットしない。でもそんな中、アーレント側からの研究論文が目に入る。加藤篤子「アーレントからみたハイデッガーのDenken」(人文8 学習院大学、2009)というもの。

それによるとアーレントは、ハイデガー80歳の寄稿文(1969年)において、その「思索」(Denken)が「生命感と一つになるような情熱的な思索」だと持ち上げているのだという。けれどもその一方で彼女は、70年代の講演にもとづくとされる『精神の生活』で、ハイデガーの「思考」(Denken)に批判的な見解を示してみせる。で、その両義性をも踏まえつつ、アーレントによる批判の内容を検証しようというのがその論考なのだけれど、一つ興味深い点が、アーレントの考える思考の構造・枠組みだ。カントに依拠しつつ、アーレントはこう考えているらしい。自分が考えるというとき、それは感覚に現前しないものに係わり合っている。思考はそのとき現象世界(常識=共通感覚)から一時的に退却する。思考は認識から断絶するものであり(それらの境界線を曖昧にしたとして、アーレントはドイツ観念論を、ひいてはハイデガーを批判するのだという)、世界から退却した思考は現象しない。けれども反省的意識はその性格上、思考のための内的な場所を指示せずにはいない。かくして思考活動が続く間のみ、あるいはその都度、精神の能力とその反省性が意識されることになるというのだ。こうしてアーレントは、経験的思惟を定立的な存在として解釈するハイデガーに対立する。そんなものは定立的には存在せず、思考が働く間のみ、翻って反省的に立ち現れるにすぎないのだ、と……。うーむ、これは時代的に見てもとても興味深い構造的シフトかもしれない。アーレントもやはり、なかなか侮りがたいかも(笑)。

隷従的意志の問題へ……

Leviathan_by_Thomas_Hobbes表題につられて(笑)、ジュリア・ブロテア「中世人の肩の上に乗る−−『リヴァイアサン』における「人間」の研究」(Julia Brotea, Standing on the shoulders of medieval men: a study of ‘man’ in the Leviathan, Leviathan – Notes on Political Research, No.7, 2013)という論考を読んでみた。ホッブスの『リヴァイアサン』はもっぱら近代の黎明期の理論書という印象が強いけれど、それが中世以来の思想的伝統を踏まえた上で構築されているとしたら……そういう問題意識から、なんとここではアウグスティヌスの改宗を一つのモデルケースとして、ホッブスの人間観との共通性を探ってみようというのがその主旨。「中世人」をアウグスティヌスに代表させるのはどうかとか、いろいろツッコミどころもありそうだけれど、そのあたりをいったん括弧に括るなら、なるほどホッブズが描く人間像というのが、アウグスティヌスの改宗にいたる自己とどれほど近いと言えるのかというのは、案外面白そうな問題設定ではある。この論考の著者によれば、ポイントになるテーマは三つ。一つは死への恐れ、二つめは障害要因としての傲慢、そして三つめは隷従を求める意志だという。アウグスティヌスの中のそれらと、ホッブズの場合のそれらはもちろん細かな点では異なるわけだけれども、いずれにしてもそれらは両者が共有し、改宗と、リヴァイアサンへの信約の、構造的な要をなしているのだ、というわけだ。ま、さしあたりそれほど深みのある読解ではないのかもしれないけれど、これはもっと深化させられるのかもしれない。個人的にはこの三つめの自発的隷従の問題が、切実なテーマとしてとても気になるところ。ホッブズもさることながら、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー(有名な「自発的隷従論」の邦訳(『自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)』)も先頃文庫で出ていたのだっけね)などをも引き込んで、さらにはアウグスティヌスより以前の意志論とか、中世の神学的文脈での意志の問題とかをも視野におさめつつ、隷従的意志をめぐる縦断的な思想史が書かれてほしいところだ。

情念の分類から情動主義批判へ

感情とは何か: プラトンからアーレントまで (ちくま新書)清水真木『感情とは何か: プラトンからアーレントまで (ちくま新書)』(筑摩書房、2014)を読んでみた。感情の問題を扱っているものの、心理学ではなく、純然たる哲学・哲学史からのアプローチになっている点で、小著だけれども、山椒さながらピリッと辛い好著。要は哲学史的な見地から、古代から近代までの各思想家たちが「感情」(情動、情念)の問題にどうアプローチして今にいたっているのかをまとめているわけなのだけれど、そのまとめ方、話の展開がある意味ドラマチックで興味深い。様々な著者の「感情」論が俎上に載せられていくのはもちろんなのだけれど、必ずしも年代順ではなく、論じられるその都度のテーマに沿って行きつ戻りつしつつ、幅広いパースペクティブがカバーされるという趣向のようだ。もちろんそこには一本のメインストリームも敷かれている。感情の問題を始めてテーマ化したとされるのはストア派だというが(一章が割かれている)、前半のハイライトをなしているのはなんといってもデカルトとマルブランシュ。デカルトは感情を基本的に「驚き」として規定し(それは感情の契機の順番として一番最初にくるとされる)、一方のマルブランシュは「悦び」を中心に据えて捉えようとする、と。いずれにしても一七世紀ごろまではそうした感情の分類と順番(この順番というのがデカルトのオリジナルなのだそうだが)が主要な問題になっていたのに対して、その後の時代では、むしろ情動主義(感情が価値判断に先立つという立場)とその批判が主軸をなすようになっていくのだという。同書もまた、それに沿った形で、情動主義に依って立つとされる「感情についての科学的理解」や、ある種の分析哲学的な情動主義などを批判していく。そればかりか、情動主義の大元と見なされるヒュームに立ち返って、そこから反情動主義的な思想、つまり感情が理性から独立した道徳的判断、すなわち情念の反映であると説いている点をつかみ出してみせる。後半のハイライトは、なんといってもそのあたりの妙味かな。