ヘンリクスとエギディウス

今年の春ごろに出たらしいコルドニエとスアレス=ナニの『開示されたアリストテレス主義』(Cordonier, Suarez-Nani, L’Aristotélisme exposé : aspects du débat philosophique entre Henri de Gand et Gilles de Rome, Academic Press, 2014)という共著が、ゲントのヘンリクスとエギディウス・ロマヌスの関係についてなにやら議論(物議?)を喚起しているらしい。現物を見ていないので詳しいことはわからないけれど、ただAcademia.eduのほうにそれに寄与するというタイトルの草稿(準備中の著書の一部なのだとか)が出ていて、ちょっと興味をそそられる。ステファヌ・ムーラ「ゲントのヘンリクスvsエギディウス・ロマヌス:『開示されたアリストテレス主義』をめぐる議論への寄与」(Stéphane Mourad, Henry of Ghent versus Giles of Rome (in French) – Contribution au débat sur l’aristotélisme exposé)というもので、パリ禁令以後における、知性単一説へのヘンリクスとエギディウスの対応を比較している。1286年の復活祭の自由討論で、ヘンリクスは「知性の単一性もしくは複数性をアリストテレスの議論から論証できるか」という問題に取り組む。面白いのは、そこではもはや知性が単一かどうかが問われているのではなく、その議論がアリストテレスから導けるかどうかが問題になっていて、ヘンリクスはそこで複数説を論証するのではなく、アリストテレスの議論が確証を欠いていることを示しているという点。アリストテレス自身が知性の単一性には疑念を抱いている、ということにあくまでヘンリクスはこだわり続ける。魂が肉体の現実態であるというテーゼについても、あるいは知性(魂の部分をなす)がそうだというテーゼについても、ヘンリクスはアリストテレスがそれを確実なこと、無条件的なものとして述べてはいない点を重視する。その上で、アリストテレスが掲げる基本原理の謬性は、信仰にもとづく議論でもって論駁すべきだということを述べているんだとか。

一方のエギディウス・ロマヌスはというと、1287年にやはり自由討論で知性が単一か複数化という問題に触れている。ヘンリクスよりも一年ほど後だけれど、そこでもアリストテレスの議論それ自体が問われているようで、エギディウスは、知性が肉体の数に応じて複数存在するとする議論のほうを「哲学者」はむしろ認めているように思われる、としている。アリストテレスの確証性そのものは問わないものの、「哲学者」の意図はどうだったのかが問われているというわけだ。パリの禁令から10年を経て、アリストテレスがどう捉えていたかというワンクッションを置いて、単一説をめぐる10年前の論争の「無力化」を図っている点が、ヘンリクスとエギディウスに共通するスタンスだとされている。アリストテレスも人間だから間違いうる、というブラバンのシゲルスの発言がその下敷きになっているというあたりも興味深い。