カルダーノと霊魂の不滅性

どちらかというと数学史的な文脈からなのだけれど、このところジローラモ・カルダーノ(16世紀)にあらためて注目していた。三次方程式の解法をめぐるタルターリャとの優先権論争などの話はなかなか面白そうでもある。ちなみに、その解法を記した『アルス・マグナ』(1545)はPDFで見ることができる(→こちら)。で、そんなことを見ているうちに、否応なく霊魂論の話にも再遭遇。カルダーノといえば、霊魂可滅論の人だったっけなあ、と。ところがホセ・マヌエル・ガルシア・バルベルデ「ジローラモ・カルダーノ『魂の不死について』における、霊魂不滅論への諸反論」(José Manuel García Valverde, The Arguments against the Immortality of the Soul in De Immortalitate animorum of Girolamo Cardano, Bruniana & Campaneliana, 2007)によると、話はそう単純でもないらしい。『魂の不滅性について』は冒頭で、当時までの不滅論への諸反論をまとめてリストアップしていて、そうした諸反論に対するカルダーノ自身の再反論がときに不十分であったり欠落したりしていることから、同時代人からすでに可滅論の擁護者扱いされていたというわけなのだが、実はカルダーノは、アフロディシアスのアレクサンドロス(唯物論のいわば始祖的存在だ)やポンポナッツィ(不滅論批判の旗手的存在)に反対していたし、アヴェロエスへも批判的だったという。そのあたりの事情を同書の本文に即してくわしく見ていくというのが同論考。

同書にはいろいろな観点からの批判があるようだが、たとえば不滅論への主要な懐疑の一つに、魂の活動が肉体に依存しているという考え方からの批判がある。魂は感覚からもたらされる像を必要としているとするなら、肉体から離れた魂は、もはや感覚的な与件を得られず、存続できないのではないか、というわけなのだが、これについてはすでにトマス・アクィナスなどの解答があり、そこでは知的魂について、それが肉体から離れてからは別様の在り方になるということが言われている。けれどもそれでは、同じ対象が生前と死後で異なる機能をもち、生前は自然学的、死後は神学的対象になってしまうのではないか、といった難点が生じる。また、トマスの場合、離在的な魂となってからは、その認識力は神の直接的な介入によって現動化するとされるのだが、それでは人間は完成度の点で神のすぐ下にいることになってしまい(天使など、ほかの霊的存在があるとされるにもかかわらず)、世界の序列が乱されることになるのではないか、といった問題も湧出してくる。結局カルダーノはそうした認識力の維持を認めず、感覚の与件がなくなれば、知性(人間に与えられた受動知性)はそれまでの活動を継続できないと考えているらしい。さらにカルダーノの独自の見解として、知性そのものの不滅性は受け入れるものの、それは死後はまったくの非活動状態に置かれる、と主張するのだという(!)。そしてただ能動知性(受動知性とともに協同するとされる)のみが輪廻という形で新たな人間生命に注ぎ込まれていくのだ、と……。なるほど、これはまた実にラディカル。ちなみにこの『魂の不滅性について』もPDFで読むことができる(→こちら)。また、論考の著者ベルバルデによる校注版もあるようだ(→こちら)。

カルダーノの肖像(セント・アンドリュース大学数学・統計学校に掲げられたもの:wikipediaより)
カルダーノの肖像(セント・アンドリュース大学数学・統計学校に掲げられたもの:wikipediaより)