戦争と税制(14世紀ポルトガルの場合)

経済史のちょっと面白い論文。アントニオ・カストロ・ヘンリケス「租税国家の台頭、ポルトガル、1371-1401」(António Castro Henriques, The Rise of a Tax State: Portugal, 1371-1401, E-Journal of Portuguese History Vol. 12, 2014)(PDFはこちら)というもの。基本的に戦費を賄うことが税務の必要性の高まりと課税の強化をもたらした、との一般論があるけれども、この論考は、戦争と税制の関連は必ずしもそう単純ではないかもしれないという話を、14世紀後半のポルトガルを例に検証するという内容。14世紀後半のポルトガルは、ジョアン一世のアヴィス王朝が始まり、カスティーリャとの戦争が繰り広げられた時代。このころ、税制もいわゆる売上税(sisa)が広がり、年代記などではその戦争こそが売上税の導入をもたらしたと記されていたりし、それを受けて90年代ごろの税制史研究でも両者を割と短絡的に結びつけている例があるのだという。けれども事はそう単純ではないようで、たとえば同時期の英仏百年戦争は、同じような恒久的課税制度をもたらしてはいないという。同じくまことしやかに言われてきた説として、ポルトガルの場合、売上税が導入されたのはまずは自治体によってで、戦争を口実に王朝がそれを自治体から奪い、メインの財源に据えたというボトムアップ説があるというのだけれど、論文著者によれば、史料からはむしろ、14世紀のほとんどの売上税は宮廷による要請にもとづいているようだといい、宮廷への納付のために自治体が売上税を徴収していたというトップダウン説を唱えることも十分可能だという。また、当初は「重量ベース」だった売上税(通行税みたいなもので、商品が自治体に運ばれるときに徴収された)が「価格ベース」になったのも、1372年に宮廷が売上税を全土に課した際の重大な変更だったという。宮廷にとっては安定財源になるわけだけれど、自治体からすれば重い負担にもなった。で、戦争との絡みでいえば、それら売上税は戦争前から存在していたといい(価格ベースになったのも戦争前)、しかも総合的には、戦争の前後で宮廷の税収は実質的にそれほど違ってはいないのだという(金属含有量や交換レートで見れば、税収は表面的に悪化しているらしいのだけれど)。うーん、戦争と税制の両者の関連性はずいぶん相対化されている印象だ。

ジョアン一世
ジョアン一世

ポインソットの記号論

これも知らなかったのだけれど、記号論の嚆矢として17世紀のポルトガル出身のドミニコ会士ジョン(ジョアンノ)・ポインソット(別名:聖トマスのジョン)という人物がいるのだそうで、1632年に『記号論(Tractatus de Signis)』という書を著している。デカルトとほぼ同時代ということもあって、両者が対照されるような研究もあり、いちおうポインソットは実在論側に位置づけられているのだけれど(新トマス主義の枠組みで)、実はその位置づけは多少とも揺らぎうるのではないか、という主旨の論考を読んでみた。マルク・シャンパーニュ「性質の共有による現実との融合をめぐる、ポインソットとパースの議論」(Marc Champagne, Poinsot versus Peirce on Merging with Reality by Sharing a Quality, to appear in a special issue of Versus: Quaderni di studi semiotici)というもの。チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)の記号分類(イコン、インデックス、シンボル)のうち、イコン(対象との類似性にもとづき、その対象を示す記号を言う)に相当するものについて、ポインソットとパースの立場の違いを取り上げている(一見なかなか剛胆な比較だが)。イコンには、それが示す対象との類似性がなくてはならないわけだけれど、それがあまりに少なければ記号になり得ないし、逆にあまりに類似しすぎていれば(対象と完全に一致するような場合)、それもまた記号ではなくなってしまう。このことは心的なイメージ(感覚的スペキエス)と外部世界にも適用されうる。で、この上限についてポインソットは、対象と記号との類似が完全に近いほど、表象の効果は大きくなるものの、両者が完全に同一化することはないとして、最低限の相違が必要だとしている。心的なイメージと外部世界の関係でいえば、両者は完全には一致しないということになる。その意味で、ポインソットにおいては実在論は完全には成立しないのではないか、というわけだ。これがパースともなると、対象との同一化は記号原理を無効にしてしまうとしつつも、完全な融合(自立的に存在するという意味で、第一性と称されている)の余地を温存しているという。記号と対象から、それらが共有する性質だけを独立した関係性として取り出すことができるという議論だが、それこそがまさしく最低限の論理記号学的近接性をなすというのだ。

パースの議論の細かい話も興味深いけれど、個人的にはやはり、ここで登場しているポインソットの記号論の全体像を知りたいところだ。幸い、その対訳テキストがオンラインで出ている。しばらくこれを読んでみようかと思っているが、実際これはなかなか面白そう。

クリステヴァによるアーレント

ハンナ・アーレント講義―新しい世界のために休日読書を兼ねて、ジュリア・クリステヴァ『ハンナ・アーレント講義―新しい世界のために』(青木隆嘉訳、論創社)を読了。クリステヴァなんてずいぶん久しぶりだ。これはトロント大学での五回の講義(1999年)を収録したもので、「語り」のテーマをめぐるアーレントの思索と実践についてクリステヴァが多面的にアプローチしている。アーレントはまずもってアリストテレスのゾーエーとビオスの違いに触れて、ビオス(政治的な生)の前提として言葉の使用、語る行為を思い描いているという。政治的な実践は語りに、それも物語としての語りにあるとされ、ゆえに演劇は政治的領域の芸術への移しかえとして特権的な位置づけとされる。次に物語には主人公が必要とされるわけなのだけれど、それを担うのは個人、なにがしかの「人物」だ。そこではドゥンス・スコトゥスの個体化の原理が援用されて、抽象的な「人類」よりも「この人」が上位に置かれるほか、ペトルス・ヨハネス・オリヴィも言及されて「人物」の個としての独自性がこの上なく称揚される。そのため逆に身体を軽視することになるなどの点をクリステヴァは批判的に取り上げているのだけれど、そうした瑕疵(なのかな?)はともかくとして、人物としての独自性をなくそうとする「運動」や「グループ」から自衛するというアーレントのある意味孤高の姿勢は高く評価されている。前回のエントリでも触れたような、時間の中に一度きり存在した個というスコトゥス的なものに、アーレントが強く反応し、それにまたクリステヴァが応答を返していることが見て取れる。さらに、話はアーレントの未完の判断論へと進む。アーレントにとって「判断を脅かす二つの障害とは、(……)直線として経験される人間的時間にみられる不可逆性と予測不可能性という二つの障害」(p.77)だと喝破するクリステヴァは、それに対する人間の力として、忘却する力(すなわちそれは人に対する赦しだとされる)と約束する能力を挙げ、それがアーレントにおいては「公的生活に不可欠な最高の二つの「調整メカニズム」」とされているのだと述べている。このあたり、やや図式的な見立てのような感じもなくはないけれど、この赦しと約束というテーマ自体は確かにきわめて深淵なものに映る。

ちなみに訳者による巻末の解題には、アーレントとの関連でギュンター・アンダースに多くのページが割かれている。これも一読に値する文章。

スコトゥスと時間概念

前回のエントリの続き、というわけでもないのだけれど、スコトゥスの時間概念についての考察を見かけたので取り上げておこう。パスカル・マシー「ドゥンス・スコトゥスにおける時間と偶有性」(Pascal Massie, Time and Contingency in Duns Scotus, The Saint Anselm Journal, vol. 3.2, 2006 )(PDFはこちら)。哲学プロパーの議論に踏み込んでいるので、ちょっとややこしいのだけれど、とりあえずまとめておこう。ここでもまずは、時間を運動の考察から切り離したことがスコトゥスの大きな転換だったとされている。スコトゥスは、運動のともなわない時間がありうるという議論(現実態の時間のほか、潜在的時間も存在するという)を示しているという。この観点からすると、たとえば「時間を超越している」とされる神にとっての「永遠」はどういうものになるのだろうか。ボエティウスなどは、「円の外周のどの点も中心から等しい」ように、神にとっては時間のどの時点も同様に現在をなしている、といった言い方をしているというのだが、スコトゥスはこれに異を唱える。この円周と中心のイメージを修正し、次のように言うというのだ。時間の円は最初に点の全体が与えられるのではなく、中心と任意の端部の点から成る直線がたえず動き続けるだけで、各瞬間には円周が存在してはいない。言い換えると時間の円は固定されているのではなく、幾何学者の想像力においてたえず描かれつつある。つまり、その永遠なるものは、潜在的な時間(ありうる円周上の諸点)とは共存(co-exist)していない。永遠概念が共存できるのはあくまで現実態の時間的存在(実際に動く端部)とのみなのだ。神にとっての現在(時間を超越した現在、つまりは永遠)は、現実態の時間、すなわち時間的な「今」とのみ共存可能なのだ、と。

というわけで、スコトゥスにとって唯一現実的なのは「現在」だけなのだというのだが、同時にそれは「直ちに過ぎ去る」という意味で流れゆくものでしかない。では永遠と時間との関係はどうなるのか。上の議論から永遠は時間全体と共存することはできないとされ(ちなみにそれらが共存できるとするのがトマス・アクィナスの立場)、スコトゥスの場合、共存できるのはその「現在」のみとされる。神が未来を知るという場合、神はそれを未来のこととして、つまりまだ現実態になっていないものとして知るのであり、神の自由意志において、そうでないこともありえるものとして知るというわけだ。現在とはしたがって、現実態になっていないものが神の判断という原因領域において現働化する契機を言い、ゆえにそれは「t」で表されるような任意の時間ではない。しかもそれはすぐに消えて流れ去る。ということは、私たちの「現在」においてのみ永遠は生じ、しかもそれは「現在」にとっての「他者」としてのみ生じ、その意味では「生じてなどいない」とも言える……。なにやらややこしいが、「現在」が生じることが、永遠を指し示し、かつまた永遠それ自体は時間の流れの外に<常に>あって、そもそも「生じて」などいないというわけだ。時間のうちに存在するものは、偶有的に存在しつつも、それが一度きりの存在だという意味で、永遠に「かつて存在した」ものとなる。これはまた、偶有性と運命性とが出会う場でもある。スコトゥスの議論からこうしたテーゼを引き出すのも、ある種の力業という感じがしないでもないが(笑)、いずれにしてもそれが、神の認識における「永遠」と、人間の時間的「現在」との通行路を開いてみせているのだとしたら、そこにこそスコトゥスの革新性を見て取るべしという話も、あながち外れてはいないのかもしれない。