愛すべきパスティーシュ

奴隷のしつけ方前回、奴隷制の話がちらっと出たので、閑話休題的に次の書籍を挙げておこう。これは遊び心満載の現代の偽書、あるいはパスティーシュといったところの一冊。ジェリー・トナー『奴隷のしつけ方』(橘明美訳、太田出版、2015)。一応マルクス・ドニウス・ファルクスなるローマ時代の人物の著書ということになっているが、これはケンブリッジの古典学者研究者ジェリー・トナーが作った架空の人物。このマルクスなる人物の語りは、ローマ時代の諸文献からの寄せ集めで、まさに引用の織物といったところ。マルクスのテキスト(の翻訳)の各章に、このトナーが解説を付したという体裁になっている。トナーはこの解説で、引用元などを丁寧に明かしているが、これがなければ、つまりマルクスのテキストだけが流通したら、それで即、偽書の誕生ということになってしまいそうだ(笑)。もちろんこれは、当時の奴隷の管理方法に託して、現代社会の人材管理などの話を当てこすっているのだろうし、一種のビジネス書として読んでもよいのだけれど、でもやはり、古代に想いを馳せつつ良質のエンターテインメントとして読むのが王道だろう。いずれにしても、こういう遊び、前にも言ったけれど、一度はやってみたいと思うところ。惜しみなく拍手をおくりたい。

【基本】古代の「オイコノミア」

アリストテレスの『政治学』に続いて、今度はクセノフォンの『オイコノミコス』(家政について)を読もうと思い、それに先駆けてちょっと基本の復習。ちょうど古代ギリシアの「オイコノミア」がどういうものだったかを要領よくまとめた文章を見かけたので。ドタン・レスヘム「古代ギリシア人にとってオイコノミアはどういう意味だったか」(Dotan Leshem, What Did the Ancient Greeks Mean by Oikonomia?, in Journal of Economic Perspectives, vol. 30, no.1, 2016)というもの。

まず最初は「オイコノミア」の言葉の歴史について。オイコスは家とはいっても、むしろなんらかの製造拠点をも含む「地所」を意味していたといい、その管理術自体は紀元前8世紀から6世紀ごろの文献(ヘシオドスなど)で扱われているものの、「オイコノミア」という用語が台頭するのは、都市国家の統治が隆盛を極めるようになってから(紀元前5世紀−−ソクラテスの時代だ)だという。クセノフォンの著書もちょうどそのころ。続く紀元前4世紀のアリストテレス以降、約500年間にわたって哲学諸派による家政学の文献が書き継がれていく。続いて論考はクセノフォンを中心に、当時のオイコノミアの特徴点をさらっている。当時の「経済学」(家政学)は倫理的な側面が強いということがよく言われるが、これを支えているものとして、今の経済学の基礎である稀少性とはまったく逆に、自然は十分すぎるほどの財をもたらしうるという共通認識があった。そのため当時の経済の管理というのは、いかにその潤沢な財を抑制して用いるかという倫理的なスタンスが問題にされた、というわけだ。しかもその際の財の概念は、物質的な財というよりは、人的資源、すなわち奴隷制度に結びついていた……。こうしてみると、奴隷制との絡みなども含めて、近代における潤沢から稀少性への共通認識の転換というのはどのあたりに位置づけられるのかが改めて気になってくる。ちょっとそのあたりの経済学史的な話も覗いてみたい。

推論の内実

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)またまた読みかけだけれども、ロバート・ブランダム『推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)』(斎藤浩文訳、春秋社、2016)を見ているところ。原著は2002年刊。文章が少し固い印象で、読み進むのがときおり難儀に感じられるような箇所もあり、できればもう少しこなれていてほしい気もするが、それはともかく、プラグマティズムの一分派だというこの「推論主義」、文の概念的内容を、その文の要素である名辞や述語などからボトムアップ的に考える従来の「表象主義」でなく、それを逆転させるかたちで、文が担う機能的・使用的な面から、この場合なら推論という表現の関係性からトップダウン的に意味を考えるという立場のことを言うらしい。ここでの「推論」も、従来のような論理的能力をベースに、合理的・形式的な推論の規則を記述していくというものではなく、より実質的・実践的な、よりしなやか・細やかで暗黙的な表現の繋がりのようなものを考えているように思われる。

だいぶ前に、ロボットなどの制御システムの構築にあたって、すべてのステップを分岐させて細かく網羅的にプログラミングするのではなく、素材のもつ弾性などを利用できる場合には利用するという発想の転換(シンプルデザインみたいな名前がついていたような気がする)によってプログラミングのステップを縮小・効率化する、みたいな話があったが、この推論の考え方はそれに重なるようにも思える。条件法をもとにすべての分岐を事細かく形式的に記述していくのではなく、概念内容に暗黙的に含まれるもの(「ピッツバーグがプリンストンの西にある」なら、「プリンストンはピッツバーグの東にある」が推論されるのは、「東西」の概念内容にもとづく推論だとされる)などはそのまま実質推論として受け止める、という発想であるように見える。確かに、ごくありふれた自然な、あるいは日常的な推論というものは、形式的に込み入った記述で成り立っているのではなく、もっと「シンプル」だと思われる。そこを掬い上げようという方向性には、ある種の共感を覚える。もちろん、それが哲学的な記述の体系としてどうなのかはまた別の問題になってくるのだろうけれど……。こうした実質的な推論の内実から出発して、同書は最終的に、その考え方からどのように末端の名辞や述語の意味論が導けるか、というところまで行くようなので(冒頭のほうでそのような宣言がある)、個人的には楽しみな展開でもある。メモるべきことがあればまた取り上げよう。

分析神学、分析宗教哲学?

分析美学も聞き慣れないものだったけれど、さらには分析神学、分析宗教哲学なんてものまであるようだ。マックス・ベイカー=ヒッチ「分析神学と分析宗教哲学:違いは何か」(Max Baker-Hytch, Analytic Theology and Analytic Philosophy of Religion: What’s the difference ? in Journal of Analytic Theology 4, 2016)という論文が公開されている。具体的な学問領域の定義はともかく、少なくとも両者がかなり微妙な境界線をもっていることだけは同論考から窺える。もちろん両者は分析哲学系のアプローチ(とくに可能世界論など)を踏襲したものらしく、同著者によれば、とくに分析宗教哲学は「神、死後の生、宗教的信仰、信条、宗教体験など、宗教的に意味のあるトピック」を扱う分析哲学の支流ということらしい。また、有神論全般を扱うのが分析宗教哲学だとすれば、とくにキリスト教の宗教的伝統に見られる神についての主張にまつわる諸問題を検討するのが分析神学だという。で、同論考は、両者の違いをまさしく分析哲学的な観点から掬い上げようとしているかのようだ。その大きな部分を占めるのが方法論的な違いなのだけれど、問題となっているのは聖書や伝承の扱われ方。聖書の命題を基本前提と見なすかどうかや、聖書の命題が特定の主張のみについての真理論になっているか、聖書が一般的に信頼しうる出典として認められるかどうか、認める場合に、それが認識論的循環論法として認められているのか、それとも非循環論法か(聖書以外の史料などを用いるか)などの分岐でもってケース分けを行い、分析神学と分析宗教哲学の境界線を確定しようとしている……わけなのだけれど、うーむ、やはりこれだけでは今一つピンと来ないか……(当たり前か)。やはりそれぞれの具体的な論考などを見てみないと。というわけで、これもまた個人的に、探求領域の拡大として少し面白そうな予感がする(?)。