メディアヴィラのリカルドゥスによる「悪」

Questions Disputees: Questions 23-31 Les Demons (Bibliotheque Scolastique)オリヴィの論と平行して、メディアヴィラのリカルドゥスによる悪(悪魔)についての論も読み始めた。ものは『討論問題集』の問題23から31、底本とするのは羅仏対訳・校注本の第4巻(Richard de Mediavilla, Questions disputées: Tome IV, Questions 23-31, Les Demons (Bibliotheque Scolastique), Paris, Les Belles Lettres, 2011)。オリヴィによる悪の定義が、たんなる善の否定にとどまらず、存在論的な実体としてあることを謳っていたのとは対照的に、リカルドゥスはアンセルムス以来の「善の不在・欠如」としての悪を、とことん突き詰める方向へと向かうようだ。冒頭の問題23では、まずその善に不在・欠如としての悪の事例として、自然の法に従わないことによる生成力・形成力が怪物を生む、といった例が出されている(第1項)。次いで天使の堕落(最初の罪)もまた、存在そのものの善性と不整合であるという意味で不在・欠如をなしていると解釈される(第2項)。

なんらかの原理によって悪が生じる(実体的に)のはありえないとするリカルドゥスは、したがって天使の罪もまた、なんらかの原理から生じた実体的なもの、生じるべくして生じたものではないと考えている(第3項)。したがってそれは天使の意志から生じたものなのだ、と。しかしながら、意志もまた本来的には善を志向するものとして創造されているとされる(第4項)。ゆえにその罪は、意志において偶発的に生じたもの(意志におけるある種の脆弱さ・欠陥)であるはずだ、という(第5項)。さらにいえば、意志におけるそうした脆弱さの可能性(defectibilis)と、それがもつ自由から生じているのだ、と。自由における可誤性の議論では、自由というものが、被造物の不完全性としての意志の脆弱さ・欠陥(の可能性)を現働化する条件になっている、とされている。ここへきて、オリヴィとは正反対の悪の定義から出発しているリカルドゥスが、同じように意志の自由の問題に出くわしている点がなかなか興味深い。