【基本】クザーヌスの位置取り

Participation Et Vision De Dieu Chez Nicolas De Cues (Publications De L'institut D'etudes Medievales De L'institut Catholique De Paris)イザベル・ムーラン編『ニコラウス・クザーヌスにおける神の分有と観想』(Participation et Vision de Dieu chez Nicolas de Cues (Publications de l’Institut d’Études Médiévales de l’Institut Catholique de Paris), éd. Isabelle Moulin, J. Vrin, 2017)という小論集を見始める。15世紀という時代もあって、クザーヌスは一般に中世からその後の時代区分(その呼称はルネサンスだったり、初期近代だったりいろいろだが)への移行期に位置づけられるが、どちらかというと、やはり新しい時代の側に寄せて解釈されることのほうが多いように思われる。でもそのあたりの解釈というか位置づけは、存外に明確ではないような気もする。より中世のほうに引き寄せて解釈するものがあってもいいのではないか、なんてつい思ったりもする。研究対象としてのクザーヌスは、研究者層が比較的厚い思想家なので、もちろんそういう立場もありそうだし、とくにドイツ以外の周辺あたりに転がっていそうな印象もある(あくまで印象だけれど)。というわけで、そんな思いとともにこの論考を眺めようと思っているところ。

さしあたり編者ムーランによる序論。全体的なまとめ・概論だけれど、これがいきなり上の問題に触れていて、とても参考になる。影響関係から見るなら、偽ディオニュシオスの否定神学や、プロクロスの受容によるプラトン主義が大きく影響していて、そこに流れ込んでいるアリストテレス思想やアウグスティヌス主義は後退しているとされる。このアリストテレス思想の後退と、さらにクザーヌスが数学と天文学に傾倒していることなどが、クザーヌスの先進性の大きな支えになっているという話。けれども宇宙論的な話はシャルトル学派に求められるし、数学への着目もプラトン主義の再発見に拠るところが大きいとも言われている。もちろんこの序論もクザーヌスの近代性への開かれに主眼を置いてはいる。けれども一方でその背景に広大なスコラ学の様々な流れがうねりをなしていることを、強調する書き方になってもいる。

また、この序論でもう一つ面白い箇所は、クザーヌスの人文主義的な人間中心主義と、世界の中心のずらしとが関連し合っていることを改めて指摘しているところ。神の創った世界を、いたるところに中心があって外周がない円と捉えることにより、逆に人間の主体的なまなざしの中心性が意識され、と同時にそれが、神的な絶対的まなざしによって担われることで担保される、という図式。こうした連関は、クザーヌスより前の14世紀あたりの複数の神学者たちにも萌芽的に見いだせそうな気もするが……果たしてどうなのか(?)。ほかの論考についても興味深い点があればピックアップしたい。

触覚の復権へ?

触れることのモダニティ ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ髙村峰生『触れることのモダニティーーロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ』(以文社、2017)は、20世紀初頭ごろのモダニズムの芸術運動を事例として、西欧が、みずから貶め放擲してきた「触覚的なもの」をいかに再評価し、取り込み直していくのかを考察しようという野心的な論考。触覚の再評価は、これまた詩的議論として実に興味深い論点と言えそうだ。とりあえずざっと前半。触覚が苛まれてきた伝統にも長い歴史があり、同書も冒頭でアリストテレスにまで遡っている。アリストテレスの場合、知的な認識と結びつく視覚と対照的に、生命そのものに等しく宿る感覚として触覚が取り上げられ、根源的なものとして評価されはするものの、人間と動物性との区別のせいで、結果的に触覚は感覚のヒエラルキーの最下方へと追いやられてしまう。それからはるか後代の20世紀、原始的なもの、始原的なものとの関わりが、たとえばプリミティブ・アートとして再興する。さらにはフロイトなどによる人間の内なる始原の再発見として。触覚そのものも、モダニズムの中で再評価され、それに連なる絵画や小説作品が多数産み出されて、抑圧されていたものが蘇る……。

こうした従来型の見立てが果たして本当に有効なのかは、見解の分かれるところかもしれない。触覚的なものへの意識の振り分けは、案外古く、中世末期とか初期近代のあたりから特定できそうな気もするのだが、ひとまずここでは置いておく。代わりにメモとして取り上げておきたいのが、第一章で扱われている、D.H. ロレンス(『チャタレイ夫人の恋人』で知られるあのロレンス)によるエトルリア研究。ロレンスが一貫して抱いていたらしい触覚的なものへの嗜好が、その古代エトルリアの研究にも流れているという話。エトルリアは前一世紀ごろまでイタリア中部にあった都市国家群で、ギリシアとも文化的に異なっていた。で、ロレンスは、ローマとの対立で政治的に価値を貶められたエトルリアについて、その文化的遺物(壁画など)を手がかりに、再評価を試みる。その際、ロレンスはそこに「触れあうこと」「触知による関係性」を読み込もうとするのだという。触覚的なものの再評価は、身体、生命そのもの、情動などの再評価につながる。かくしてこの著書では、ロレンスを論じたジル・ドゥルーズまでもが引き合いに出される。さらにはロレンスの政治観、ロレンスによるセザンヌ論なども。そのあたりの推論の積み重ねは、厳密な論証としてはどうなのかという評価もあるかもしれないが、ある種の詩的なアプローチとしては興味深いものがある。視覚の優位そのものは揺るがなくとも、そこに触覚的なものを絡めることによって、従来型の絵画批評や政治的議論に別筋のアプローチ、異なる視点がもたらされる、みたいな。そうしたやり方を過去の事象に汲み取っていくこと。もちろん、あまりにも恣意的にならない限りにおいて。このこと自体には、決して軽視できない方法論となる可能性がある……。

環境哲学の可能性?

複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学篠原雅武『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(以文社、2017)を読み始めたところ。まだざっと全体の三分の一ほど。「対象指向存在論(Object Oriented Onthology)」に与するティモシー・モートンなる論者の議論を、まとめて紹介した一冊。副題の「人間ならざるものの環境哲学」という部分に惹かれて、モートンに関する予備知識がないまま読み始めたのだけれど、要点がわしづかみにできるような感触があって、全体的によい入門書になっている気がする。環境というものを、いきなりの自然環境のように大上段に構えたりせず、文字通り人の周囲のミニマルな状況から捉えていこうとするアプローチのようだ。すると当然のように、その環境は人工的な環境を含まざるをえない。かくしてそうした人工的環境を「読む」というかたちで探求は進められるらしい。イデオロギー的なエコロジーとはまったく別物だし、一方で人間の優位性を弱めるかたちで「モノ」の世界を考える、ほかの思弁的実在論の立場とも微妙に異なっている印象を受ける。もっとも、今のところモートンの元の著書はことごとく未読なので、果たして本当にそうなのかどうかは不詳だが……(苦笑)。

モートンという人は、どうやら文学畑の出身で(イギリス・ロマン主義研究?)、そこでのアプローチ(こちらのサイトを参照)は、思想的な想像における商品と比喩的言語のインタラクションの研究が出発点のようだ。外と内(外的空間と内的空間)の二元論を、安易に融合させようとするのではなく、両者の分割の部分的な崩れをもとに、「詩的に」考察しようとしている、ということか。これはそのまま人をとりまくミクロな環境についての読みへと敷衍されていく。人間的環境と自然的環境の二元論を、ほつれを通じて考察する(?)……。これを「アンビエント詩学」と称するのだという。うーむ、ここでもまた詩学が問題になっているわけか……。あらゆる思想が社会の行く先をなんらかの形で先取りして反映しているのだとするなら、デリダ的な「脱構築」よりもはるかに穏やかなスタンスだというその謳いは、一体どのような未来を私たちに告げているのか?著書の邦訳の刊行が待たれる。

【雑記】言語の力

公開中の映画『メッセージ』(原題:Arrival、ドニ・ヴィルヌーヴ監督作品、2016)を観た。主人公が言語学者のSF。言語学者を主人公に据えた作品は『アリスのままで』(グラッツァー&ウェストモアランド監督作品、2014)もあったけれど、そちらはアルツハイマー病の話。これも人の尊厳や人格的同一性についての問題提起の映画ではあったけれど、言語学的・言語哲学的に踏み込んでいくわけではなく、言語学者という設定が生かし切れていたかどうかは微妙なところでもあった。一方、今回の映画は、未知の生命体とのファーストコンタクトを題材に、まさに言語と認識の問題に(もちろんほんの少しだけではあるけれど)立ち入っていこうとしている。エンターテインメントだけれど、それはそれで好感が持てる。仮にそんなファーストコンタクトが現実にあったとしたら、同作に描かれたように、やはり軍が先頭に立って指揮するだろうし、言語学者・記号学者も動員されるだろう。そのあたりは、なるほどそれなりにリアリティがあるかもしれない。音声の区切りすらわからない状況で、最初の意思疎通を図るために、文字を見せる(幾何学図形とかではなしに)というのも秀逸なアイデアだ。もっとも、フィクションの要をなす嘘もあって、劇中で言及されるサピア=ウォーフの仮説は、現実の認識は言語の枠組みによって制約を受ける、というもので、言語がある種の認識能力を導く・開花させるという話ではないと思うのだけれど、映画ではこれが拡大的に解釈されて終盤に重要な役割を果たしていく。言語の力といったテーマが全体を貫き、まさにカナダ人監督の多言語環境あってこその一作という気もするし、また、ここには完全言語(神の言語、アダムの言語)をめぐる長い伝統の息づかいも感じられる。

個人的にはまた音楽がよかった。ミニマル・ミュージック的・環境音楽的な流れとドローン(通低音)が、独特な雰囲気を盛り上げている。というわけで、サントラを挙げておく。