直観主義と論理主義 – 1

現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学ヴラン社刊『数学の哲学』でも第三部で取り上げているのが、直観主義と形式主義の問題。そちらを読み進める前に、ちょうど読み始めた現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学』(青土社、2017)に、伊藤邦武「ラッセルとポアンカレ」という論考が掲載されていたので、まずはそちらからポイントとなる部分をメモ的に抜き出しておく。『数学の諸原理』刊行前に、ラッセルがポアンカレと論争を繰り広げていたという話なのだけれど、一般に論理主義vs直観主義とまとめられるその論争について同論考は紹介するとともに、改めて検証の必要を説いている。ポアンカレの立場は、絶対的真理と懐疑論の両極を否定して、その中間形としての「仮説」に、多重的な区別と役割を認めるというもの。ポアンカレは「仮説」に大きく三つの区分(つまり(1)検証可能なもの、(2)思惟を固定させるのに有益な道具となるもの、(3)実際には偽装された定義や規約に帰着するもの)を認める。このうち(2)は算術に、(3)は幾何学において重要だとされ、(1)が有用とされるのは、物理学(力学は除く)においてだという。

ラッセルは書評において、この(2)が、カント的な人間精神にアプリオリに存在する推論能力(数学的帰納法)を意味しているとし、その上で、精神の能力という概念が曖昧で、しかもたとえば無限を扱う場合にはそれでは不十分だと批判する。だからこそ、数学的真理には集合論を基礎とする論理学への還元が必要なのだ、というわけだ。これに対してポアンカレは、数学的推理から論理的要素を分離しようとする試み全般を批判する。まずもって数学的推論の論理学への還元はパラドクスをもたらすという難点がある。ポアンカレはそれが集合の分類における「可述性(prédicabilité)」の条件の曖昧さに由来すると考えた。しかしながら論文著者によると、ラッセルもそれを「悪循環原理」として認め、そこからタイプ理論を構築したといい、両者の立場の違いは直観主義vs論理主義を越えて、「可述主義」へと収斂していると見なすこともできるのではないかという。

両者はまた、幾何学と感覚的経験との関係についても対立しているという。非ユークリッド的な体系が見いだされて以来、人間の知覚経験をもととする空間の経験主義的な基礎付けは難しい問題になったというが、ラッセルはそうした基礎付けが可能だとの立場を取り、対するポアンカレは、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とが形式的体系としては互いに等価で、知覚経験にもとづく検証や反証、優劣の判定は不可能だとの立場を取っていた。ポアンカレは、知覚的経験が把握するのは個別的対象にほかならないと考え、ラッセルのほうは、知覚的経験が把握するのは対象同士の関係そのものだと考える。なるほどこれは大きな認識論的違いだ。両者の間にはほかにも実無限をめぐる対立、さらには確率・蓋然性をめぐる対立もあったといい(ラッセルは、ポアンカレは確率に主観的解釈を施しすぎるとし、論理的分析としての客観的解釈を提唱していた)、論考ではそれらについても取り上げられている。