考えなしの時代

La Dépenséeジゼル・ベルクマンの論集『脱思考』(Gisèle Berkman, La Dépensée, Fayard, 2013)から、2章めとなる「昇華の不調」(Malaise dans la sublimation)という小論をざっと読んでみた。ベルクマンといえば、前にデュピュイの破局論を批判したりしていて面白かったのだが、今度はここでスティグレールの社会的な議論をやはり批判している。この小論、全体としては、思惟・思考のたがが外れあらゆることが「考えなし」(書籍のタイトルla dépenséeは、そういうことを指している)になっている現代をどう見るかという問題を扱っていて、スティグレールがそれを蛮行(bêtise)のカテゴリーの変容などとみていることに対し、そうではないのではないか、と問うている。少なくとも現行の意図的な「無欲」(non-vouloir)は、動物性と狂喜のはざまにあって執着する蛮行などとは別物の愚かさ(connerie)ではないか、もはやアドルノとホルクハイマーがかつて論じたようなものではないのではないか、と。さらには、シモンドンからドゥルーズへとつながる路線での解釈も当たらないのではないか、と。それほどに現代の状況は異質なのではないか、というわけだ。

旧来の蛮行とは違い、現代の「考えなし」はむしろ愛着の喪失(désamour)の側面が強い、とベルクマンは見ているようだ。愛着の喪失はつまりは情動の放棄を意味し、つまりは情動が昇華されて文化的事象へと転化されるという旧来の図式が通用しないことになる、と。スティグレールは超自我の権威の弱体化を見て取っているというが、ベルクマンはむしろ情動とその充足が直接つながってしまうことなどから、破滅的なダブルバンドが増大していることを重く見ている。そうであるならば、肝要なのは権威の強化などではなく、むしろ対象化の機能を取り戻すこととなる。方策として、何かを探求するような場合のその探求プロセスそのものの対象化などが示唆されている(やや抽象的な気はするが)。

ベルクマンはスティグレールよりも敏感に、変化の根がそもそも別筋である可能性を感じ取っているようだ。けれども理論化においてすぐさま精神分析の枠組みを出してくるなど、そのあたりはどうなのかという疑問もないわけではない。とはいえ、そうした精神分析的な図式においても別筋の可能性を呈示しようとしている点は評価できる気がする。そんなわけでベルクマンはなかなか興味深いのだが……まとまった邦訳とか出ないかしら?