『反逆の神話』を読む
文庫化されたということで、ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター著『反逆の神話』を読んでみました。アメリカの左派系のカウンターカルチャーを、より俯瞰的な観点から総合的に批判するという一冊です。この「俯瞰的な観点」というところがミソで、カウンターカルチャーが消費文化を批判するどころか、それにどっぶりと浸かって抜け出せないということを、多彩な事例を引きながら具体的に示してみせます。
俯瞰的というのはつまり、対象から適度な距離を取ることで、個々の対象にこだわるでもなく、拙速に一般論に傾くでもない、ニュートラルに近い立場を維持するということです。
個人的に読みどころと思ったのは、フランスの現代思想やそのもとになっている様々な思想書などが、次々に俎上にのせられていくところでしょうか。それらも逐次、一貫して俯瞰的な視点で捉え、批判していきます。
ちょっとだけ例を挙げるなら、たとえばこんな話。社会の契約もしくはルールに関する近代的な議論の始祖ともいうべき、ホッブスやルソーですが、彼らは別に現代的な無政府主義を論じていたわけではありません。ホッブスなどはルールがなければそもそも人間の協働はありえないと考えているし、ルソーも社会制度やルールの縛りに反対などしていないといいます。フロイトなどの(暴力的な)人間像や協働の考え方とは、ずいぶん異なっている、というわけです。
あるいはマルクスの話。マルクスは一般的な過剰生産によって恐慌が起きると主張しているというのですが、市場経済は基本的に交換のシステムなので、総需要と総供給は同じにならなくてはならず、過剰生産は生じない、と同書の著者たちは考えています(セーの法則ですね)。すると、たとえばボードリヤールが、人々が本当に必要としていないとして批判する消費財の過剰論なども、まさにその「ありもしない」過剰生産の理屈によるものにすぎない、ということになってしまいます(しかもボードリヤールのその不要リストは、中年の知識人の価値観でしかない、などと痛罵されています)。
総じて、抑圧された状況からの解放(すなわち自由の獲得)というスローガンが、ルールの変更ではなく、ルールの縛りそのものを解体することとイコールとされるなど、ルールや自由についてのはき違え、あるいは個別論の一般論への拙速な投影が、問題の所在を見えなくしている、というのが同書の基本的立場です。結局、重要なのはルールを撤廃することではなく、ルールの変更、マイナーリペアなのだ、というわけです。まさに中道的なスタンスです。
最近、分配を言いつのるようになった日本の現政権について、分配を政策綱領とするのは社会主義を標榜することだ、などと短絡的で乱暴な主張をしている記事を見かけたりしました。これなども個別論の一般論への拙速な投影です。そうした拙速な投影そのものを批判するのは、左派・右派に関係なく、とても重要だと思われます。