「葉隠れ」的日本

「葉隠れ」はおそろしい?!


 以前、『反「暴君」の政治史』などが面白かった将基面貴巳氏の新刊、『従順さのどこがいけないのか (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房、2021)をざっと読んでみました。若い人向けに平坦な語り口で説く「不服従のすすめ」という感じの一冊です。好感度は高いと思います。

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 一番の読みどころは、『葉隠れ』(江戸中期の家訓集です)を例に、日本独特の忠信について指摘した箇所でしょうか。西欧の思想でも、あるいは中国の儒教の伝統でも、信義を貫く当の対象というのは、究極的に「リーダー」個人ではなく、そのリーダーが体現している理想そのものであるとされ、リーダーが誤る場合には、反旗を翻したり、そのリーダーのもとを去ったりするのを良しとするのに対し、「葉隠れ」では、ひたすらリーダーに尽くすことが美徳とされ、しかもその目的は、リーダーのふがいなさを世間から隠匿するためだ、というのですね。

 個人的にはかなり気色悪い論理に思えますが、ではその基盤となっている思想は何なのか、なぜそうすることが美徳とされるのか、詳しく見てみたい気もしなくもありません。怖いもの見たさ、でしょうか???

言語とノスタルジー

複合化に開かれるために


 バルバラ・カッサンの小著『ノスタルジー』(Barbara Cassin, "La nostalgie : Quand donc est-on chez soi ?", Fayard/pluriel, 2013-15)をざっと読んでみました。カッサンは国際哲学コレージュのディレクターだった人物で、2018年にアカデミー・フランセーズ入りしています。

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 書影は現在出ているものとちょっと違うので、省略。すでに邦訳も出ていますね。カッサンの初の邦訳のようです。

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 基本的に文学(オデュッセイア、アエネイス、そしてアーレント)におけるノスタルジーをテーマとしたエッセイです。ホメロスやローマ建国神話のころには、そもそも「ノスタルジー」という言葉(17世紀に医師がスイスで考案した言葉とのこと)がないので、ある意味アナクロニズムなアプローチという感じもしなくもないですが、最後のアーレントについての章は印象に残ります。そこでは、母語とノスタルジーの関係について触れています。

 アーレントはユダヤ人ですが母語はドイツ語でした。亡命生活を余儀なくされ、英語を中心としたポリグロット(多言語話者)として生きていきます。そのことから、諸言語間での曖昧さ、さらには一言語内部での曖昧さなどのテーマが可視化することになります。著者はこれを敷衍し、言語はもとより土地に帰属するものではなく、(人が何語でも学ぶことができるように)つねに「土地を追われている」存在だととらえます。

 さらにそこから、全体主義を招きかねない均一化に対して、普遍や哲学的真理をラディカルに複合化していくこと(言語の複数性を武器として、ということでしょう)こそ、政治的に正しいあり方だという指摘がなされます。ノスタルジーを単に懐古的に捉えるのではなく、それを積極的な前進の力とすることを、訴えているといってもよいかもしれません。これはある意味、とても面白い視点のように思われます。

能力主義(功績主義)の嘘

それに代わる正義はあるか


 マイケル・サンデルの新しい邦訳書『実力も運のうち——能力主義は正義か』(鬼澤忍訳、早川書房、2021)を読んでみました。ちょっと邦訳タイトルは軽いですが、実際には能力主義(メリトクラシー:功績主義)の是非を政治哲学的に論じた啓発の書で、そんなに軽い中身ではありません。

 最初は時事評論的に、トランプ誕生その他世界的な保守化・ポピュリズムを概観しています。ポピュリスト政権の誕生の背景の一端として、アメリカなどの民主主義国家が奉じる「メリトクラシー」がある、というわけですね。中盤になると、政治思想的な分析が行われ、最後にありうべき代案を示すという、政治論文的な構成になっています。

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 個人的に面白かったのは中盤の政治思想的分析です。ハイエクが説く自由市場的な正義も、ロールズが説く分配的正義も、ともにメリトクラシーの肯定に行き着いてしまう、というのが興味深いです。というか、要するにどちらの立場でも、メリトクラシー自体を問い直していない、ということなのですね。

 自由主義経済の体制が、自由を謳いながらも、少なからぬ場合にコネや談合でもって「非・自由」な活動に終始するのと同様に、能力主義を謳ったところで、少なからぬ場合、世襲その他の「非・能力的な」要素で評価が決まることを(そしてそこから漏れてしまう人々が多数に及ぶことを)、サンデルは社会的な正義とは言えないと断じます。その上で、ささやかな、けれども重要な転換策を提唱します。

 ネタバレになってもナンなので、そのあたりは伏せておきますが(労働の尊厳についての再考、とだけ記しておきます)、共同体主義者サンデルならではという感じの提言です。そうした提言がなんらかのかたちで政策に反映されるようになるには、それなりに長い時間が必要になるような気もしますが、今のままで必ずしもよいとは言えない以上、そうしたシフト、あるいはマイナーリペアの可能性は、つねに探らなくてはならないと思えます。

歴史学の困難

単純化してはいけない


 春に入手できなかった岩波書店の『思想』3月号を、ようやく手に入れました。特集は「ナショナル・ヒストリー再考—フランスとの対話から」で、前半はパトリック・ブシュロン編の『世界の中のフランス史』(Histoire mondiale de la France)の紹介、後半はそれを受けての日本国内の高校での歴史授業の試みの紹介と、対談による批判的検討から構成されています。

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 『世界の中のフランス史』は多くの執筆者によるアンソロジーらしく、この号にはその序文といくつかのアーティクルを旗振り役の三浦信孝氏が訳出したもの、同氏による解題、さらに執筆者の一人ニコラ・ドラランドの日本での講演会、そして関連した論考が収録されています。

 同書が刊行された文脈や社会情勢についてはこの解題が詳しいです。フランスでは2010年代初め、国力の衰退論やアイデンティティをめぐる議論が活発化し、史学においても、ナショナル・ヒストリーとしてのフランス史をやる人々と、世界史からのアプローチをとる人々との対立構図が際立っていたのだとか。同書は、両者の和解は可能であり、どちらかを選ぶ必要などないというスタンスから編まれたものだと、ブシュロンが語った発言が引用されています。問われているのは「複数の歴史」を書く自由なのだ、というわけですね。

 思うにそれは、イデオロギー的なものに絡め取られて、なんらかの単純化した知見に安易に与しないように、という警鐘のような気がします。

 岩崎稔氏・成田龍一氏の対談では、語りについての問題が指摘されています。ブシュロンの仕事を雛型とする新しいナショナル・ヒストリーが広がっていく可能性が言及されていたり、歴史の事実性だけでは十分な説得力をもたなくなっている現状で、どのような「魅力的なナラティブを構築すればいいのか」という問題が指摘されていたりします。

 岩崎氏の発言からは、次のような示唆に富んだ指摘もありました (p.145)。

わたしは、植民地主義とレイシズムは、西洋のナショナル・ヒストリーをめぐるこれまでの記述に、部分的に補完されるべき一定の欠損であるとはもう言えないように思えます。そこにある根強い消去と否認のメカニズムは、近代の問題の核心中の核心かもしれないと思うようになりました。

うーん、このあたり、個人的にもちょっと唸ってしまいました。

 

通訳と「にわか勉強」

にわか勉強の是非


 鳥飼玖美子『通訳者たちの見た戦後史』(新潮文庫、2021)を読んでみました。。

 鳥飼氏といえば、昔の『百万人の英語』の講師陣の一人でもあり、当時から同通(同時通訳)の第一人者とされていました。後には英語教育法で学位を取得されて大学の先生になっていたのですね。同書は2013年のみすず書房の本の文庫化だそうですが、これがなかなかいい感じのエッセイ集になっています。現役時代の同僚だった錚々たる通訳者の証言、職業としての通訳、語学教育、語学関連の諸制度の問題など、様々なテーマを取り上げています。

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 印象的だった箇所の一つを引用しておきます(pp.123-124)。

(……)アポロ宇宙中継の同時通訳で私が学んだのは、単に「言葉」を知ることでは本当の通訳はできない、ということであった。英語のbasaltは「玄武岩」だと覚えるだけでは不十分で、月面に玄武岩が存在する確率や、その理由、玄武岩が月に存在することの意味まで突っ込んで調べない限り、通訳することは無理だ、ということであった。それと同時に、所詮はにわか勉強で専門知識を身につける、という通訳者の悲哀も漠然と感じたことは否めない。

 この「にわか勉強」の是非というのは結構切実な問題かもしれません。以前、とある通訳者と、専門をもたないけれど語学は強い人と、なんらかの関連分野の専門があるけれど語学はそこそこの人のどちらが、特定の場面での通訳をするのにベターか、というような議論をしたことがあります。もちろんケースバイケースなので(どのようなレベルの専門性が問われる会議なのかとか)、一概には言えないかもしれませんが、個人的にはやはり後者のほうがよいのでは、と思ってしまいます。

 にわか勉強ではやはりいろいろ限界があるからで、よく知らない分野だと、ある事象についてのなんらかの話が、別の話にどう有機的につながっているのか、即座にはわからなかったりとか(苦笑)、いろいろ細かいところで問題が出てきます。

 もっとも、通訳者を「養成する」なんて場合の、技法の習得効率ということで考えるならば、前者のほうに分がありそうですけれど……。