歴史学の困難

単純化してはいけない


 春に入手できなかった岩波書店の『思想』3月号を、ようやく手に入れました。特集は「ナショナル・ヒストリー再考—フランスとの対話から」で、前半はパトリック・ブシュロン編の『世界の中のフランス史』(Histoire mondiale de la France)の紹介、後半はそれを受けての日本国内の高校での歴史授業の試みの紹介と、対談による批判的検討から構成されています。

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 『世界の中のフランス史』は多くの執筆者によるアンソロジーらしく、この号にはその序文といくつかのアーティクルを旗振り役の三浦信孝氏が訳出したもの、同氏による解題、さらに執筆者の一人ニコラ・ドラランドの日本での講演会、そして関連した論考が収録されています。

 同書が刊行された文脈や社会情勢についてはこの解題が詳しいです。フランスでは2010年代初め、国力の衰退論やアイデンティティをめぐる議論が活発化し、史学においても、ナショナル・ヒストリーとしてのフランス史をやる人々と、世界史からのアプローチをとる人々との対立構図が際立っていたのだとか。同書は、両者の和解は可能であり、どちらかを選ぶ必要などないというスタンスから編まれたものだと、ブシュロンが語った発言が引用されています。問われているのは「複数の歴史」を書く自由なのだ、というわけですね。

 思うにそれは、イデオロギー的なものに絡め取られて、なんらかの単純化した知見に安易に与しないように、という警鐘のような気がします。

 岩崎稔氏・成田龍一氏の対談では、語りについての問題が指摘されています。ブシュロンの仕事を雛型とする新しいナショナル・ヒストリーが広がっていく可能性が言及されていたり、歴史の事実性だけでは十分な説得力をもたなくなっている現状で、どのような「魅力的なナラティブを構築すればいいのか」という問題が指摘されていたりします。

 岩崎氏の発言からは、次のような示唆に富んだ指摘もありました (p.145)。

わたしは、植民地主義とレイシズムは、西洋のナショナル・ヒストリーをめぐるこれまでの記述に、部分的に補完されるべき一定の欠損であるとはもう言えないように思えます。そこにある根強い消去と否認のメカニズムは、近代の問題の核心中の核心かもしれないと思うようになりました。

うーん、このあたり、個人的にもちょっと唸ってしまいました。