通訳と「にわか勉強」

にわか勉強の是非


 鳥飼玖美子『通訳者たちの見た戦後史』(新潮文庫、2021)を読んでみました。。

 鳥飼氏といえば、昔の『百万人の英語』の講師陣の一人でもあり、当時から同通(同時通訳)の第一人者とされていました。後には英語教育法で学位を取得されて大学の先生になっていたのですね。同書は2013年のみすず書房の本の文庫化だそうですが、これがなかなかいい感じのエッセイ集になっています。現役時代の同僚だった錚々たる通訳者の証言、職業としての通訳、語学教育、語学関連の諸制度の問題など、様々なテーマを取り上げています。

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 印象的だった箇所の一つを引用しておきます(pp.123-124)。

(……)アポロ宇宙中継の同時通訳で私が学んだのは、単に「言葉」を知ることでは本当の通訳はできない、ということであった。英語のbasaltは「玄武岩」だと覚えるだけでは不十分で、月面に玄武岩が存在する確率や、その理由、玄武岩が月に存在することの意味まで突っ込んで調べない限り、通訳することは無理だ、ということであった。それと同時に、所詮はにわか勉強で専門知識を身につける、という通訳者の悲哀も漠然と感じたことは否めない。

 この「にわか勉強」の是非というのは結構切実な問題かもしれません。以前、とある通訳者と、専門をもたないけれど語学は強い人と、なんらかの関連分野の専門があるけれど語学はそこそこの人のどちらが、特定の場面での通訳をするのにベターか、というような議論をしたことがあります。もちろんケースバイケースなので(どのようなレベルの専門性が問われる会議なのかとか)、一概には言えないかもしれませんが、個人的にはやはり後者のほうがよいのでは、と思ってしまいます。

 にわか勉強ではやはりいろいろ限界があるからで、よく知らない分野だと、ある事象についてのなんらかの話が、別の話にどう有機的につながっているのか、即座にはわからなかったりとか(苦笑)、いろいろ細かいところで問題が出てきます。

 もっとも、通訳者を「養成する」なんて場合の、技法の習得効率ということで考えるならば、前者のほうに分がありそうですけれど……。