ポール・ド・マン

または文学再入門


 積ん読本から、岩波『思想』の2013年7月号を引っ張りだして見ているところです。特集は「ポール・ド・マン:没後30年を迎えて」。ポール・ド・マンってちゃんと読んだことがなく、デリダの脱構築概念を取り込んだ文芸批評家という程度の認識しかありませんでした。でも、この脱構築にしても、デリダの考えるものとはちょっと違っていることなどが、最初に載録されている土田知則・巽孝之・宮﨑裕助の三氏による座談会でも明らかになっていきます。

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 ちなみに、deconstructionの訳語として脱構築をひねり出したのは、由良君美だったといった話が印象的です。

 続く富山太佳夫「ポール・ド・マン再読」という論文も、その脱構築について、デリダやド・マン、さらには事典などの要約的記述なども含めて、概念的な変遷、あるいはその意味合いの広がりを、詳しく追っている感じです。

 個人的にとても刺激的だったのが、座談会にも登場した宮﨑裕助氏の「弁解機械作動中」と題された論考です。前半では、ルソーの記す「自分がリボンを盗み、マリオンという少女に罪をなすりつけた思い出」をめぐるデリダとド・マンの解釈上の対立が、実はさほど違っていないことを指摘します。どちらも告白と弁解の本質的な決定不可能性を論じているのに、デリダは拙速に違いを強調して、ド・マンが告白のふたつの様態を分離して一方から他方へ移行するものと見なしている、というのですね。

 論考の後半では、今度はド・マンの解釈を吟味して、ルソーの「弁解の余地」をさぐり当てています。少女に罪をなすりつけたことについてルソーは、その子が好きで、その子のことを考えばかりいたのでとっさに口をついて出た、と弁解するのですが、それは後付けの理由にすぎず、その子の名前が飛び出してくるのは、あくまで偶然、一種の錯乱状態とも受け取れます。ここにこそ、ルソーのその発話が悪意のないフィクションである可能性、ひいては弁解に開かれている微細な可能性があるというわけです。

 でもその弁解は成功しはしません。ルソーは「罪をひけらかすように」そのエピソードを語っているからです。語られた経験は、つねに虚構的な言説と重なって、それ自体が未決性に彩られるしかなく、ひけらかしの罪をまとってしまうしかないというのです。ひけらかしの罪とは、様々な読み手のありとあらゆる非難を引き寄せてしまうようなものなのですね。この意味で、あらゆるテキストは弁解であり、それはテキストが言わんとする経験を、その経験の事象性・体験そのものから引き離して、結果的に言わんとすることを打ち消してしまう……。このような構造を、ド・マンの解釈は引き出すことができるのだ、というのです。

 うーむ、この解釈の妙味のすばらしさ。しばらく忘れていましたが、文学の(というか文学研究の)醍醐味を、久しぶりに味わった気分です。再入門してみたくなったり(笑)。