流れとしての読書

本は読めないもの、という「開き直り」?


 管啓次郎の挑発的(?)なタイトルの本を読んでみました。『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫、2021)というもの。一種の読書論的なエッセイなのですが、これがめっぽう面白いのです。

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 全体を貫くスタンスもしくは構え方は、本というのは記憶であり、記憶は不確かなものながら、全体の流れとしてあり、そこではもはや個体としての本というものはなくなり、テキストの断片だけがゆるやかに島を作っている、というようなイメージですね。どこかしら説得力のある、元気をもたらすビジョンです。

 いくつか抜き書きしておきましょう。

われわれの大部分はただ霧の森をさまよい、おなじ樹木に何度も出会いながらひどいときにはそうと気づきもせずに通り過ぎ、おなじ草を何度も踏んではかたわらに生えるおなじキノコにぼんやり目をとめるだけで、疲労をためていく。読書の道は遠い。(p.12)

ぼくにとって本はつねに流れの中にあり、すべての本はこの机に一時滞在するにすぎず、何らかの痕跡を残して、必ず去ってゆく。中には文字通りのフェティッシュ(お守り)として手許にとどめておきたいものもあるが、それが多くなりすぎては力が相殺し呪物としての霊験がうすれるので注意しなくてはならない。物体としての本は風ぐるま、しょっちゅう風にあてて新たな回転を与えてやる必要がある。(p.75)

(……)映画は忘れる。どうしても。でも本も忘れる。忘れれば忘れるほど、見直すたび読み直すたびに新鮮なんだから、それでいいじゃないか。それは負け惜しみ、あまりに忘れるから絶望的な気分になる。だが覚えている部分もちゃんとあるのだから、ある映画をたしかにあるときには見たし、ある本をあるときにはたしかに読んだわけだ。記銘と記憶は、偶然に左右されているのか。その偶然と思っているものが、じつは自分のほんとうの輪郭なのか。(p.169)

実に共感できる素敵な文言たちです(笑)。