昨年からずっとちびちび読んでいる Loeb版のエピクテトス『語録』は、ようやく下巻(3、4巻)に入ったところです。
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上巻のほうでも、また下巻に入ってからもとても気になっているのが、頻出する「プロアイレシス」という語。Loebのこの対訳では、ほぼ一貫して「right moral purpose」(道徳的に正しい目的)と英訳されているようなのですが、個人的にはこの訳語、妙に腑に落ちない気がし、なにやら居心地が悪くて落ち着きません。
エピクテトスは基本的に、人は自分が制御できる範囲とそうでないものを分けて、制御できる範囲・選択可能な事柄にのみ、自発的な働きかけを行えと説いているようなのですが、プロアイレシスはその文脈で登場し、エピクテトスは、このプロアイレシスから外れたことをしないよう心がけることが大事であると言ったりするわけです。
語源的には、プロアイレシスは「あらかじめ(プロ)選択すること(アイレシス)」ということで、そこから目的・目標、意図、企図、方針、さらには傾向、善意、献身などを意味するようなのですが、エピクテトスのテキストにおいてそれが正確にどのあたりのニュアンスを指しているのか、ちょっと解せない感じがするのです。
それは神々からもたらされた賜物なのだ、と語られていたりもし、「道徳的に正しい」というニュアンスはそのあたりを汲んでいるのかもしれませんが、制御の拠り所・基準点として、人間にあらかじめ備わっているなにかを指すとしたら、それは選択そのものと相容れないようにも思えますし、あるいは制御の可能・不可能性の境界線・分岐点に位置づけられるような何かにも思えます。基準をなすのですからとても重要なものであるはずですが、ではなぜそんな曖昧な位置づけになってしまうのか、なんだかよく解せない感じ……。こうしてこの数ヶ月、落ち着かない感覚をもちながらテキストと向かい合っていました。
で、ここへ来て少し新たな進展が。ちょうど、ダブルバインド理論などで知られるベイトソンの論集『精神の生態学へ』(岩波文庫)が、Kindle版で出ていたので、このところつらつら眺めていたのですが、これに、(明示されてはいませんが)プロアイレシスに関係しそうな文言があって、少しばかりヒントをもらえた気がしたのです。たとえばこんな一節。
意識の含む内容が、非意識的なマインドでの出来事からランダムに選び取られたものでないことは確実である。意識のスクリーンに映し出されているものが、マインド内の巨大な出来事の群がりの中から、体系的に選び取られていることは疑いない。しかしこの選択が、いかなる規則によって行われるのか、いかなるものが選り好みされるのかということについては、ほとんど何も知られていない。(下巻:「目的意識がヒトの適応に及ぼす作用」)
なるほどサイバネティクス的・ベイトソン的に読むストア派哲学、というのは面白いテーマかもしれませんね。この話、先の悪についての話にも関係してくるはずですし、もう少しまとまったらまた取り上げてみたいと思います。