デリバティブと分人

人類学の立場から金融の問題に挑むという、ちょっと風変わりな本を読む。アルジュン・アパドゥライ『不確実性の人類学――デリバティブ金融時代の言語の失敗』(中川理、中空萌訳、以文社、2020)。リーマンショックにいたったデリバティブ金融の本質が、実は一種の書面契約で、新しい約束によって以前の約束を商品化することに繰り返しにより、連結した巨大な約束の束ができあがり、それを扱うトレーダーたちは、約束の重荷のごく小さな一部分しか担わず、約束の力は薄められて広く拡散してしまうことになる、と同書の著者は指摘する。ではなぜ、約束がさらに別の約束にまとめられて責務が薄らぐような構造が出来上がるのか。この問題にアプローチするために、著者はそうした約束を一種の遂行的言語(オースティン的な)と見なすことを提唱する。それは言語的欲望だというわけだ。リーマンショックは、とりもなおさず増幅した言語の失敗ととらえることができるのではないか、と。

その上で、著者はウェーバーの資本主義研究から非合理な(魔術的な)「手続き至上主義」を、またマルセル・モースの贈与論から競覇的贈与の考え方を、デュルケームから精神的なもののが投影としての社会を、それぞれ市場に適用・援用して、上の問いへと迫っていこうとする。で、著者はそこから、もはや19世紀のように個人が問題なのではなく、「分人」概念(個人の前提条件、個人が成立する物質的基礎、あるいはビッグデータに象徴されるような、役割、機能として掬い上げられる人的概念、ラトゥールなどのアクター、エージェントに重なる概念)を軸に、贈与の問題などを再構築することが重要だとの主張にいたる。さらに、金融取引において扱われるのは「捕食的分人」だとして、これを「真に社会化された分人」に置き換えることこそが、これから求められる社会変革だと結んでいく。

全体として、事例の精緻な検証というよりも社会理論ベースの本なので、デリバティブそのものの分析は少し詰めが甘い印象でもあるし、社会的な変革のプログラムも筋道が示されるわけではなく、失礼ながらいわゆる「若書きか?」との印象を受けたのだけれど、実際には著者は49年生まれの重鎮だというから驚きだ(管見にして知らなかった)。デリバティブを一定のルールで縛る方向で議論しないのは、人間の欲望の産物である以上、いちど創出されたデリバティブはもう止められないとの認識が著者の根底にあるようだが、そのあたりは異論もありそうだ。けれども、そうして出てきたデリバティブを、よりよい社会的利益につなげる方法を模索できないかという問題意識そのもの(「分人主義」の変革もそのためにある)は、共有しうるかもしれない。

バディウのプラトン回帰について

積読になっていたアラン・バディウの小著『哲学のためのマニフェスト』(Alain Badiou, “Manifeste pour la philosophie“, Editions du Seuil, 1989)をざっと読む。バディウが90年代以降プラトンに回帰していたらしいことは、講義録のタイトルなどからもわかるけれど、内実としてはどういうことなのかが個人的に今一つはっきりしていなかったように思う(講義録のその巻は未読)。というわけでこの小著。哲学を成立させる基本条件としてバディウは4つの要素を切り分ける。それらは詩、数式的なもの(mathème)、政治的なもの、愛だというが、そのいずれもが、近代の哲学史においては、隣接する学問分野などのジェネリックな手続きに委ねられてしまい(これをバディウは縫合(suture)と称する)、機能をブロックされてしまっている、という。

そうした見立てにおいて、いかに哲学を復権させるかがバディウにとっての問題となる。それはつまり、現代において4つの条件のそれぞれに生じている、未規定で不定形の新しい事象の出現(これをバディウは「出来」(événement)と称しているようだ)に、概念的な布置を与えることを通じてだとされる。数学者ポール・コーエンの「ジェネリック」概念、ラカンの愛の理論、68年の5月革命に忠実な政治的なもの、そしてパウル・ツェランの詩などが、ここでは出来する事象として挙げられている。

そうした4条件の考察はいずれもプラトン的なものだ、とバディウは言う。それらはすべて、内容的な違いはともかく、プラトンが考察の対象に据えた(哲学の領域から締め出すかどうかはまた別の話)ものでもあったからだ。若きソクラテスがソフィストらのもとで学び、次いで彼らを批判的に乗り越えていくことが、ここではバディウの考える「縫合の時代から哲学再生の時代への移行」に重ね合わせられている。ニーチェ以降、一度はソフィスト的なものの側に傾いた哲学の営みを、再びプラトンの側に引き寄せる試み、ということか。

老いの現象学?

カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論――破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020)を読む。小著ではあるけれども、マラブーがずっとこだわってきた可塑性(外的変化を取り込んで内面化するという作用)についての、一つの到達点・境地なのかもしれない(原書は2009年刊)。同書で問題になっているのも、やはり認知症などで人格が一変してしまう人間主体の変貌そのもの。圧巻なのが、三章め以降での「老い」をめぐる考察の数々。通念的には、「老いは忍び寄る」と表現されるように、漸進的にいろいろな部位が衰えていくというのが一般的だが、破壊的可塑性という偶発事を考察するマラブーは、老いにはもっと瞬発的・突発的な、一気に変容する契機もあることを指摘してみせる。そうした場合、自然の衰えのプロセスと思いがけない出来事との境界は決定不能になってしまう、と。

瞬時の老化は、あらゆる心的体験・心的記憶が保持されるとするフロイトの持続的な考え方に、疑問をつきつける。通常のゆるやかな形成を意味する一般的な可塑性に対して、事故などによる損傷を破壊的可塑性と呼ぶマラブーは、老化がこの後者、つまりはひとつの損傷であると考えてみようと提唱する。そうすることで、老化現象をめぐる議論の全体的布置もまた大きく変容しうる。死もまた、そうした破壊的可塑性によって生まれるものなのだとしたら……。人が抑圧し、内奥では肯定しつつもふるまいとしては一貫して否定しつづける「否認」とは別の、端的な否定性、いっさいの肯定性をそぎ落とされた「否定的可能態」がありうるとしたら……。哲学の考察対象にこれまで昇ってこなかったそうした問題系(マラブーが老化についての活写としてプルーストやデュラスなどを挙げているように、それらもまた文学においてむしろ先取りされているのかもしれない)が、薄明かりの中で立ち上がることになるとしたら?