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雑感

このところ、読む本にもこれといって注目できるものがなくて、少し悶々とした日々を過ごしている。それでもあえて挙げるなら、ジャン=クロード・モノ『統治されすぎない技法』(Jean-Claude Monod, “L’Art de ne pas être trop gouverné“, Seuil, 2019)などか。でも、フーコー的な権力への対峙の仕方を、現代的文脈に置き換えて論じるといった姿勢が、すでにどこか既視感にあふれた、手垢のついたスタンスでしかないように見えて、あまり読書に奮い立たされる感じがしない。現代における統治の問題は、統治機構そのものが市場経済(というか市場というよりは企業ということだが)に従属してしまい、統治者もまた少数の特権的なエリート集団と化してしまっていること。そのために、近年の各種の対抗運動も、「このように統治されるのを自分たちは望まない」という叫びに変質していることを見てとっている。この見立ては正鵠を射ているだろうけれど、それにしても危機的状況に際して生じている反動として列挙される対抗運動の数々は、いずれもおのれの立脚点とすべき概念なり理念なりを、まだ十分に手にしていないとされる。もちろん前回に触れたドンズロのように、そうした概念・理念がまた新たな分裂や争議を呼ぶようなこともあるだろうし、そもそも概念化はある種の制度化を伴うわけであるし、カオスとなった運動の熱が冷めていくときに生じる事柄については、より精緻な分析が必要かもしれない(ただしそれは、ある意味とても退屈な作業かもしれないのだけれど)。

概念は分裂を呼ぶ……

すっかり形骸化してはいるものの、5月1日はメーデー。これに向けて(というわけでもなかったのだけれど)、少しばかりフランスの社会史・政治史に絡んだものに目を通しているところ。さしたあり見ているのは、ジャック・ドンズロ『社会的なものの発明』(真島一郎訳、インスクリプト、2020)。まだざっと3分の2ほど。原書は最初の版が84年刊、底本になっているものが94年刊。

これが面白いのは、一つの概念の導入が、ほどなく両義的な意味合いに分裂し、相互にせめぎ合うようになるという視点を一貫して保ちながら、そうした概念の歴史的な展開を分析していくところ。メソッド的に一貫している、ということか。まず最初の章では、「社会的なもの」の成立をめぐる分析が展開するが、そこでは、社会的なものの合意の内部に分裂をもたらすことが問題とされる。「社会的なもの」というのはそもそも本来的に欠損しているのだが、そこになんらかの概念を打ち立てて社会の体制の説明付けを行おうとするがゆえに、それは共有されもするが、同時に対立の芽をはぐくむことにもなる……。たとえばルソーの社会契約のモデルは、ルソー本人への評価とは別に、共和主義、社会主義の双方の拠り所となっていたという。しかしながら1848年に国家そのものが問題になると、その契約モデルのほころび(国家や経済への考察の不備)が露呈し、中央集権的な立場と無政府主義との衝突が激化する事態を招いてしまう、と。

続いて今度は、そうした衝突を背景に出てくる連帯の観念が取り上げられる。中心となるのはデュルケムの社会分業論。デュルケムは契約の発展のそもそもの由来を、相互依存の社会的事象、社会の有機的連帯に見て取るが、個人と社会との関係性の問題はその後も熾烈な対立をもたらしていく。国家の役割を拡張するかどうかについての賛否をめぐる論争は、どちらも連帯の観念に依拠したがために、止揚への道を逆に絶たれてしまったのだ、と。「連帯の観念さえあれば終止符を打てるとみなされてきた論争を、当の連帯観念がこうして再燃させていく」。反復されるこの構図。

さらに続いて出てくるのは、社会法をめぐる議論。とくに労災問題の解決策として出てきた保険技術だ。デュルケムの分業論やそこから導かれる連帯論を実現するとされた保険技術は、社会法によって規範化されることで、企業主と労働者の関係を賃金交渉にのみ位置づけることを可能にし、一方で労働組合も社会的合理性を持ち出して要求を拡充することが可能になったという(1920年代)。しかし一方でそれは、社会的なものと経済的なもののいずれか一方の合理性のみを押し通そうとする勢力をいっそうはぐくみ、再び国家問題を中心に、介入の役割についての対立をあおることにもなる……。

この後、さらに60年代、70年代の新左翼、改良主義運動、の話などが続く。

ゼノン

昨年からメルマガで、フェスチュジエール『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』(A.-J.Festugière, “La Révélation d’Hermès Trismégiste (Édition revue et augmenté)”, Les Belles Lettres, 2014)から、第2巻『コスモスの神』(もとは1949年刊)のストア派関連の箇所を読んでいる。で、それに関連して、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』からゼノンの項目をLoeb版(Lives of Eminent Philosophers, Volume II: Books 6-10 (Loeb Classical Library) , tr. R. D. Hicks, Harvard Univ. Press, 1925)で通読してみた。ゼノンの項目は比較的長く、Loeb版の原文部分のみで75ページほど。本人の逸話の数々に続き、ストア派の教義体系(ゼノンだけでなく、クリュシッポスやポセイドニオスなどの弟子筋の著書への言及も多い)についてのまとめが長々と続く。もちろん、これだけを見ても全体像というにはほど遠いわけだけれども。フェスチュジエールのような、当時の史的状況・思想状況と絡めた分析・解釈こそがやはり重要だ(と改めて思わされる)。

たとえば、ストア派の教義に「自然に従え」というのがあるが、ラエルティオスの記述では、「個々人の自然本性は全体の自然の一部をなしている」のだから、「おのれの自然本性に従うことこそ自然に即すること」であり、「自然に従うとは、万物を貫く法をひたすら順守すること」といったことが(文面通りではないが)説かれている。で、フェスチュジエールはこれに細やかな肉付けをしていく。要は教義の全体を、当時の政治状況から求められた世界神に結びつけてみせるのだ(以下メルマガの繰り返しのようになるが、とりあえず簡単にまとめておく)。

都市国家がかつてのようには機能しなくなっていた当時のギリシアでは、アテナイなど各地の人々、とくにそのエリート層は、守護神とされてきた神々にそっぽを向いていた。そこに、万人を等しく統治する「世界神」の概念が芽生えてくる。ストア派もそうした世界神思想を抱き、颯爽と登場したのだろう。世界神は世界を、つまり自然の全体を統治する。一方で人間は、その神のロゴスを分け与えられていて、秩序を理解する知性をもっている。となれば、その世界秩序を観想し、秩序との合一を果たそうとすることが、人間の究極の目標となる。知性を高め、賢者となり、世界秩序と合一すること、それこそが、ストア派が当時唱えていた、時代の求めに応じた新しい教義だった……。自然に従えとは、そうした大局的な世界観を、人間の自然本性の側から狭くとらえた場合の言い方ということになりそうだ。エコロジーのような思想とは、出自もベースもずいぶん異なることがわかる。

応酬へ?

前回取り上げた『<現在>という謎』(森田邦久編、勁草書房、2019)には、物理学の側から哲学への期待(もしくは苦言?)として、「新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を捉える新しい言語や概念体系を作ってくれる」(p,161)ことが要請されている。哲学の使命というものはそれだけではないだろうけれど、もちろんこれも確かに重要な一側面ではある。しかしながら今や、そうした新しい学知のための言葉や概念は、その学知の出身者にこそ委ねられていくのだろうか。いやしかし……なんてことを思うのは、関連書としてカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019)を見てみたから。ロヴェッリは1956年生まれの著名な理論物理学者で、この本でもちょっとだけ触れられるループ量子重力理論の提唱者。そうした先端的な学者が一般読者のために著したのが同書とのこと。

原題は「L’ordine del tempo(時間の順序)」。もとになっているのは古代ギリシアのアナクシマンドロスの言葉で、ほかにも同書には、アリストテレスやデカルトなどはもちろん、哲学史家でなければ言及しないような史的な著者たちまで(たとえばセビリアのイシドルスとか、ベーダ・ウェラビリスとか、マイモニデスとかその他いろいろ)言及されたりして、その博学ぶりをいかんなく発揮している。

同書の基本的な柱となっているのは、相対性理論が示したように、時間というものは相対的なものでしかなく、そもそも実体としてあるのではない(世界そのものからして実体で構成されているのではない)こと、時間は変化を可視化したものにすぎず、そうした変化が時間の矢として扱われるのは、熱量が絡む場合に限られること、熱量の変化、すなわちエントロピーこそが、運動を、すなわち変化を(それすら近似的・統計的な記述にすぎないとされるが)現出させていることなどなど。すべてにおいて視点と記述(語法)こそが問題なのだ、と喝破される。物理学において時間は、外的な性質として扱われるのに対して、哲学が調べようとするはあくまでその内的な性質にとどまることが指摘されてもいる。そうであるなら、両者の意思疎通がそもそもうまくいくわけがない、という気もする……。

しかしこの時間の内的な性質の記述というのも、ときに興味深い問題を提起する。これまた関連書として見たものだけれど、青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書、2019)では、たとえば意志による判断がいつ下されるのかといった問題に絡んで、神経学的な実験が紹介されている。二つの写真を見せてどちらかを選ばせる(ボタンを押させる)実験で、その結果、脳の反応は、意志的な写真の選択にわずかに先んじたりすることが明らかになったのだという。ではそこから、意思をもつことに対応する心理現象というものはないかもしれないという仮説が成り立つのだろうか。意志の自覚は、つねに後づけとしてなされるものなのか。さらにチョイス・ブラインドなる実験も言及されている。被験者に写真などを選ばせ、それをすり替えて説明を求めると、多くの場合、すり替えに気づきもせず、ときには自分が選択したこととして理由を述べることもあるという現象だ。選択の理由もすべて後づけでしかないのか。

著者はどちらに対しても、哲学の側からの批判を加えている。前者に対しては、そこで示された脳の反応が、選択(ボタンを押すという行為)に関連している確率は6割程度しかなく(あらかじめボタンを押すために身構える、予測している、といった反応が、結果に出ていたりするわけだ)、意志の自覚より前に脳が決断していること確証にはならないとしている。後者に対しては、日常的な「本気の」選択であれば関係するはずのリスク評価などが、介在していない特殊な実験にすぎない、と。このように、批判的な視座をもって他の学知を眺めることも、哲学に求められるべきスタンスであることは確かだろう。では上で言われているような、物理学の示す時間の外的性質に、哲学はどう批判を加えうるだろうか?そもそもそれは可能だろうか?

現在という謎(そして時間という謎)

森田邦久編『<現在>という謎――時間の空間化批判』(勁草書房、2019)を読み始める。このところ個人的に見たいくつかの書で、時間をめぐる解釈が取り上げられていたこともあって、よく言われる科学者と哲学者の認識の隔たりというのを、もう少し見ておきたいと思ったからだが、最初の章からまさにそれが鮮明に浮かび上がっている。

物理学者からすると、相対性理論と量子力学をもとに、「現在」という時刻はあくまで「座標系に依存した便宜的概念」にすぎないとされる。物理学的には、未来に計測を行って初めて確定するような過去の出来事というものもあるといい、さらに絶対的な同時性といった概念も措定できないという。相対論からは、たとえば単に高低差があるような場所でも、地球の自転によって、時間の流れにすでにして差ができる。したがって、異なる場所の二人の人物に、絶対的な同時性はありえないということになる、と。

一方、哲学の側は「現に存在する」という感覚をもとに、「存在するイコール現在である」という定式を出したりもする。けれども物理学の側からは、そうした「いまある感」が、「いま見ているあなたが物体に投影している「いま」」にすぎないと指摘されている。要するに、主観的現在にせよ、個々のそうした主観的現在が同時であるはずだとする絶対的同時性にせよ、ある種の信念でしかなく、実在するものではないのだ、と。

なるほど哲学の側は分が悪そうに見える。けれども、たとえばかつてのストア派などにおいては、時間の措定が仮のものでしかないといった議論に及んでいた可能性もあるようにも見える。再びプルタルコスの対話篇を見ておくと、登場人物たちの話から察するに、ストア派の人々は、現在が過去と未来に挟まれた境界線上の一点をなすといくら仮構したところで、それはある程度の厚みをもった時間幅でしかなく、現実的なものとはいえないと考えていたように思われる。現実的には「いま」というものは実在せず、人が「いま」と想像するものは、未来と過去とに同時に属していると見るのがよい、とストア派は言う(『モラリア』第72論文、41章)。さらにそこからの帰結として、同時に生じたとされる出来事は、その出来事以前と、その出来事以後から成るとされる。すると厳密な同時性というのはありえないことになる(ように思われる)。さらにその帰結として、結局は「時間」というものが全体として廃絶されることにもなるのではないか、と。

対話篇の登場人物は、当然ながらこれが一般通念に反するとして批判しているわけだけれども、ストア派のそうした議論は、現代的な物理学のスタンスと奇妙にも響き合い、通底しているかのようで、アナクロニズムではあるけれども、そのあたりがなんとも興味深い。